湯屋にて

 私は最近いくらか抜けている。『浮世床』を読んでは寒気に震え、部屋に閉じこもっても近隣の建て直しの工事音が耳について離れない。たまりかねて、私は銭湯の暖簾をくぐった。
 服を脱いで引き戸を開けると、視界が曇ったので初めて眼鏡をかけたままなのに気づいた。網かごに戻ってシャワーの前に来ると、今度は風呂椅子を忘れた。入り口の近くに山と積んである椅子を手にとり、座ってみてなにか足りないと思ったら桶だ。あっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。ケロリンの懐かしいロゴの入った桶を持ってもとの場所に戻ると、最前まで私が座っていたところに見知らぬ男が座っていた。確かに私のいた場所だ。のんびり顔をこすってやがる。公共の場で自分の場所もあったものではないが、自分の洗い手水場と見定めてシャンプーやら石鹸を入れた袋を置いておいた手前、黙っているわけにもいかない。私は隣に腰を下ろして男を観察した。風呂場だから相手は裸、それは当たりまえだが全身を覆うこわい毛が眼についた。二十そこそこでガタイはいい。肩の筋肉のつき方ですぐ肉体労働だとわかる。だがそれもいつかの名残かもしれない。しばらくすると、頭がずーっと下に落ちて、蛇口こつんとにぶつかった。腕もだらんと垂れて、思い出したようにむっくり起き上がると、あたりをしげしげと見まわしている。私は男を呼び止めた。
「この石鹸は私のなんですが。こっちに移してもいいですか」
 男は血走った眼で私を見ると、こっくりと首肯いた。よく聞き取れなかったようだ。袋を右へずらし、チャックを開いてなかの物を取り出してきれいに並べた。鏡にさっとシャワーをかけて、石鹸を濡らして香りをかぎ、ひげ剃りを男から離れた側にととのえ、身を清める準備を完了した。私はなんだか面白くなって、いろいろ話しかけたくなった。
「ここの席がいいですか」
 男は俯いたっきり答えない。
 私は辺りを見まわしながら、「がらんとしてますね」と言った。
 浅い息のまま男は肉体を弛緩させていった。
 次の質問をなににしようかと考えていたら、男は席を外して別の洗い場に移った。そこも人様のいたところだ、椅子に頭をかけると高いびきが聞こえた。側溝というか樋というか、流し終わった湯の通り道に体を埋めて、溶けだす体はかたときもじっとしていない。
 心配した湯屋の主人が長靴を履いて入ってきた。さも迷惑そうな顔で、男にいろいろ話しかけるが芳しい反応はない。
「こりゃよくない酔いかただね」と主人は言った。
 訳知り顔の客が近寄ってきて、
「酔ったのなら醒めりゃあ直るけど、こいつのは醒めたときのが危ないよ」と太鼓腹を叩いた。長靴を履いてゴムのエプロンの主人と、大事なところもむき出しの太った男が腕組みして見下ろしている。
「そうでしょうかねえ。いずれにしてもここじゃねえとこでやってもらわないとね。あのう、他のお客さんに迷惑がかかるから、ちょっと出てもらえないですかね」と軽く長靴で男の足を蹴った。
 男は事態を察したのか、別の洗い場に移ってからだを洗う真似事を始めた。真似でもしばらくはもつ。主人は溜息をひとつ吐いて出て行った。男はとたんに崩れてまた寝そべった。
 私は男を観察するのに飽きると、薬用風呂や電気風呂に入れ替わり入ってからだを暖めた。
 次に男の存在に気づいたのは、彼がいくらか意識を取り戻したあとのことだった。
 男はどこから取り出したのか失敬したのか、汚い手ぬぐいを首に巻くと、湯船のなかでぶつぶつしゃべりだした。唇が湯の表の近くでぱくぱく開いている。泡風呂だから湯が跳ねて男の口に飛び込んでいたが、男のさもしいたどたどしい口調は止むことなく続いた。
 私は彼のしゃべる文句をどこかで聞いた気がした。少なくとも、そんな気がした。意味は不分明でぶくぶくいう泡にかき消されて聞こえなかったが、一度どこかで聞いたことがあるという懐かしさが先に来て初めて意味がそれと知れた、とそんな感じだった。全く脈略なく「意味じゃない音から入れ」と弟子に語った落語家の師匠の言葉を思い出した。連想で釣られたわけじゃない、私は私で考えごとをしていた。風呂屋でぼやぼや思いつきを浮かべるのが好きで、湯気の立つ頭が熱に漂う。湿った温かい蒸気がどんよりと沈んだ空間で、めいめいが無関心に体を洗いながら、眺めるともなく他人の裸を眺める。「ところてんところてん……」と隣の湯が沸き立つ音に紛れてつぶやく男のしっとりとした響きが耳に残る。ところてんを箸ですくって銀河。銀河三千尺。半透明の丸い筒をつややかな光が逆さまにすべる。こぼれ落ちるツユはポン酢で味を締めている。「……は戦いのさなかで敵を閉め出し」敵国の言葉の使用を禁止して、コロムビアレコードは日本蓄音機に、ビクターは富士音響に、キングは大東亜レコードに名称を変更した。先日聴いた寄席。トリの一席。「落語やらずに軍歌ばっかり唄ってる」と揶揄される噺家は、たいそう人気を博していた。私の聞き違いか、大東亜レコードはポリドールの一時の名だ。ビクターは日本音響。富士音盤がキング。これがおそらく正しいが、正されたのはだれか。私の思い違いか、それとも噺家が言い間違えたのか。おそらくは後者だ。だが、本当にそうだといえるのか。そうだといえたからなんなのか。私はその瞬間確かにビクターは富士音響だと聴きそれでいいと思ったが、それは問題の正否が私の知識や感性の埒外にあったからだ。次々と続く軍歌。「あの頃は西暦なんていわない。皇紀二六〇〇年っつって。あれは昭和十五年です。金鵄輝く日本の。栄えある光身に受けて。右翼じゃありませんよあたしは。今こそ祝えこの明日。紀元は二六〇〇年。ああ一億の。あの頃日本の人口は七千五百万六〇人しかいなかった。でも、ああ七千五百万六〇人よ〜じゃ語呂が悪いから。だから、ああ一億人」藤村一郎奉祝歌。「加藤隼一等兵」(これも正式な名称は「加藤隼戦闘隊」だった。こちらはおそらく私の聞き違い)。「過ぎし幾多の銃撃戦♪」。いくつかの海軍の唄。轟沈。轟沈。「青いバナナも黄色く熟れた。昔はバナナも高級品で手が届かなかった。今は一房百円もしない」。そして極めつけが「海行かば」。年輩の客達は手拍子を交えて「ラバウル小唄」を唱和していた。奇妙な一体感。軍国主義の頑迷な排外的戦略をこっぴどく非難し、返す刀で軍歌のメロディの限りない美しさを賛美する噺家の繰り出すエピソードに、じょじょに客席にまします古老たちの記憶が揺すぶり起こされる。前のめりになる丸い背中。かつての兵隊が前列一列後ろから挙手をする。「俺も行ったぞ!」唄はつづく。「月月火水木金金」私も、自分にも聴こえないほど低い声で、こっそりと。見よう見まねで懐かしむ。でも、それは私だけの誤解ではない。この唄は確かに聴いたことがある。「その昔ドリフターズいかりや長介が、この唄を聴いて冠番組のオープニングテーマ曲にしようと思い、……まだある「隣組の歌」も替え歌になった……ご存知「ド・ド・ドリフの大爆笑」」私はいつも自分が部外者である世界に飛び込もうとしていた。そういう立場が一番思考を働かせることができると考えていたからだ。「遅れてきた青年が……」だからいつでも自分がひどい思い違いをしているんじゃないかと気を揉むことになる。何も知らない。ほんとうに何も知らない。ばかりでなく、それを確かめるすべを持たない。そもそも前提が間違っているかもしれないから。その瞬間それまでの自分はいなくなってしまう。そういうことにしたくもなる。だから、前提を覆されることは恐ろしくもあり、快感でもある。知識は照合される。すぐにでも。だが、あらゆる仮定は行き着くところまで行き着かなければいけない。私の頭はのらくらで、決してまっすぐ進まない。てらいでなく本当に。もうどうしようもない。こんな風な自己認識。まがい物の謙虚さ。半分はそうだ。馬鹿はどこまでいっても馬鹿。それはそうだ。裁くよりも裁かれる身を選択することによって生まれる自己保全。それもそうだ。続けよう。私の思考は直観に基づく前提と知識の誤った運用によって初めて重い腰を上げる。大いにきしりながら。誤った運用というのは二重の意味で。縦のものを横にすること。こいつは簡単だ。自分でそうだと思い込めば済む。むつかしいのはてめえの頭なんかじゃない、人様に説明する段階だ。こういうこともあるかもしれない。もしくは、あるいは。言い切らない。泳ぐ語尾。ああ、煮え切らない。だから自分で最初に飽きてしまう。いい加減ぶつかる敵さんを見定めないと、どこにもたどり着けないぞ。一人で勝手に化けてるだけだ。「ああ、それでぽんぽん言い通しだ」正しさの名のもとに語りだされるあらゆる声に逆らって。だが、そういう自分だけは正しいという立場にいつの間にかすりかわっていて。「俺ほど正しい人間はいない。なぜなら、自分が間違っているということを知っているから」彼は孤独だった。もう二度と帰らない、あの師匠は。あれほど明快に分けた人はいない。意志と欲望とを。落語界の聖パウロ。彼は意志に対しては厳しかった。自分の芸に人一倍厳しかったのはそのためだ。彼は意志の人だ。だが、それだけでは取りつく島のない潔癖性の完全主義者でしかなかったろう。欲望を知らないわけではない。この留保。とても大きな。だからこその、「人間の業の肯定」という主張の奇妙な響き。肯定する者と肯定される者のちぐはぐさ。業に突き動かされるしかすべのない人間にとって、肯定されたら身も蓋もないし、否定をされようものなら言い訳もできるが、肯定されても屁も出ない。つまりは余分なもの。それがまだあった世界となくなった世界。なにかがはっきりと変わったわけではないが、そのせいで世界は一変したのだ。業を受けいれること。裁くこと。無関心になること。三つの段階。物語。非難。忘却。物語は伝統だ。なにもつけ足すものがない。それを知ることが伝統に連なること。とても気長な、ゆっくりとした学習。いわば達観。噺の梳き鋏。黒門町の師匠。非難はその場限り。大きな声。多くの場合、立場だけがあって、孤立している。各自紛糾。銘々帰宅。忘却はすぐ訪れてすぐ消える。ヒュン。まとめるとこうなる。意志は強さと結びつくが、欲望は弱さと結びつく。なんと明快。それだけに思考は進まない。それでも続けよう。彼は弱さに親身になったが、強さは突き放した。二種類の鍛え方。教えようというなら全部を教えるべきだ。弟子は何も知らない。私は何でも知っている。それが師匠だ。弟子はすべてを学ぶ。弱点までも。いずれにせよ向き合わねばならない。師も、弟子も。教えるとはそういうことだ。一方ではそう思う。もう一方の声は、教えられるにも忸怩たるものがあるはずだ、と思い直す。教わられるままか、なら教えてなんぞやるものか。お前こそそう思っているんだろう。教わる従順さはいらん。表向きだけでいいんだ。せいぜい歯向かえ。俺も何も云わん。大変な世界なんだ。どうするんだ。ーー彼をさっそく虜にする、お決まりの自問自答。堂々巡りのようで、大きな二本の幹が絡まっているだけ。意志と欲望を分けること。欲望はもたれかかり、意志はつっぱねる。彼が抽象的なロジックのなかで遊ぶのはいつでも具体的なシチュエーションに限られていた。仮想訓練。実地検証。職人気質の唯一の倫理。そのようにして鍛え方を選ぶことができる、そのようにして鍛え方を選ばれることができる、世界の豊穣さ。しかも、ただひとりの人間のなかで。ひとりとひとりの人間のあいだで。徒弟制度。協会脱退後の家元制度。「人を正しさのもとに裁くことはできない」。ムイシュキン公爵の胸を打つ言葉。その言葉をもとに思考が始まるような、ひとつのあぶく。壁の向うに音が聞こえる、行き止まり。そこから先はない、今はまだ。だから、いつでもそこへ戻ってくることだけは知っている。前へ進むためではなく、もう一度立ち止まるために。耳を澄ますために。静寂。沸騰。がらんとした洗い場。客は独り。もう茹蛸だ。私はたまらずに湯から上がった。