喫茶店にて

 「くじらのめだか」がその男の口癖だった。本人の弁のしからしむるところによると、こっぴどく上司に叱られてしょげ返っている同僚を慰めにいったところ、デスクに座る同僚の背中越しに、真っ黒く塗りつぶされたメモ帳が見えた。その黒は一定の速度で円を描くボールペンによって肥大化し、同僚は一心に描かれつつある黒い円の中心に見入っていたという。声をかけあぐねている男を尻目に、同僚の女の子はくるりと振り返ると、「こうしていると落ち着くの」と言った。
「気づいてたの?」と男が言うと、同僚は、「見られてたから気づいたの」と答えた。妙に眼が据わっていた。
男は私に言った。「ストレス発散だよ。やたらめったら甘いもん食ったりさ。あるじゃんそういうのだれだってさ(ここで男は突然げらげら笑い出した。彼自身もときおり企業の謝罪会見を飽きずに眺めていたからだ)。他人にどう思われようなんて気になんないくらい。冷めちゃった熱心さでさ。あれやだなー、って思ったわけ。クソしたあとどんだけケツ拭いてもきれいになんないみたいなさ、ちょっと途方に暮れた感じがわびしくて。自分で自分を笑っちゃうしかないでしょ、そういうとき。だから俺は決めたのよ。人生なにが起ころうと、どんな困難があっても大事にしない。深刻にならんくていいって」
そうして男は「くじらのめだか」と口走るようになった。
まるで世間にご機嫌伺いを立てる義理でもあるかのように、顔にはいつでも愛想笑いを浮かべていた。あまり自分を語らないたちだったが、なにかの拍子に饒舌になることがあった。そんなとき、男はたいてい相手の目を見ずに突然しゃべりだすので、滔々と語られる自己開示はきわめて独り言に近いなにかだった。男はそんな自分に気づいてあわてて相手の目を覗き込むのだが、関心を惹かないとわかると途中で話を切り上げてしまった。どちらも後悔しないようなごくあっさりとした態度で。
人当たりはいいがどことなく融通が利かない面があり、男の存在にとっつきにくくも内省的な印象を与えた。まして現代では思索を必要とする場所がほとんどなくなっているので、男のもつ分別くささは皮肉混じりにおっとりとした育ちのよさのせいだと言われるほかは、ただの愚鈍さとしかみなされなかった。実際、男は不器用だったので、その挙措動作にはなにか壊れるとわかりきっている積み木を積み上げているような、いじましくもいらだたしい雰囲気があった。彼の融通の利かない面が発揮されるのは、そんなときに手助けしようと手を伸ばす他人の好意を払いのける点にあった。この善意を一瞬でおせっかいに変える魔法の一振りを、男はなかば意識的に用いた。男はいつまでも子どものように天真爛漫でありたいと思う気持ちと、あやしつけるようにさもわかりきったルールや常識を説明する他人の子ども扱いとに、どう折り合いつけてよいのか決めあぐねていた。世間知らずになるほど自分に固執するつもりはなかったが、そんな自分をどこか飽き足らなくも感じていた。ささやかな抵抗は、彼のもっとも身近な相手にしか向けられず、男は苦悩を深め、寡黙になった。未練は愛想笑いとなって現れた。
男はさっと顔を変える他人を見てどう思っていたのだろうか。男の性格を知るにつけ、この問題に有効な推測と可能な判断を導き出すまでは、不用意な相槌は避けようと私は思った(私は彼以上に用心深かった)。
案の定、男は無言の私をみて、話の続きを切り出した。
「俺さ、助けてやりたいなって思ったの。でも、心配事があったらいつでも相談にきてって言われてお前相談に行くか? いや、ぼくは心配事なんかないとかじゃなくて、たとえばの……。いいよもう乗れよばかぜんぜんだめだなお前。俺がそんなこと過去に言ったとして、そんで突然来られるとやだしさ。そ、迷惑なの。不意打ちは嫌。聞きたいときに聞きたいの。なぜならそのとき俺は言いたいことがあるから。いつでもあるとは限らないよ。巡りあわせなんだ。機会を手に入れたいと思ったら選ぶべきなんだ。だから俺はこう言った。抱え込んじゃだめだ。てんやわんやしたら俺を使いなさいって。それも自分で選べないって? 悩み事の相談でお花畑が血みどろの戦場にかわるわけじゃない。同じ戦場にいるんだ。俺は見たいものを見てる。それが肝心なことなんだ」
 私は男の言う原則論にいい加減飽きてきたので、話の催促をした。
「Kが見てると都合よく振り返るってわけね」
 この相槌はまずかった。男はなにか別の話をしようとしていたのだが、私はそれを恋愛にいたるありきたりな導入線だと捉えたのだ。男は曖昧な笑みを浮かべて口をつぐみ、話はそれきり打ち切りになった。
 私は冷めたコーヒーをすする男を見て、彼を前にしたときだれでも陥るあの嗜虐性に駆られた。追い討ちをかけろ、と彼の愛想笑いは命じていた。
「そんなに信頼されてるの?」
 男は目を上げ、ソーサーに置いたカップの立てる音の大きさにひとりでびっくりした。
 こういった言いがかりにはだれでも反応するものだが、男は違った。その手には乗らないとも言わなかった。
 沈黙を破ったものが負ける、とでもいうような救いがたい沈黙が続いたあと、突然男は携帯電話を取り出し、私の耳に押しつけた。驚くほど強い力で電話口は私のほほにくぼみをつくり、やがて女の声が聞こえた。私はしどろもどろになりながら言い訳をひねり出し、懇願の視線を投げかけたが、男はそ知らぬていで私を見ていた。
 私は負けを認め、前述の彼の性格分析の一部に訂正の必要を感じた。そして、ただひとこと男が次のように宣告するのを期待していた。「信頼されてるかどうか、知りたかったんじゃないのか」
だが、男はそういわなかった。というか、ここに書いた私の相槌より以降の記述は一種の白昼夢で、そういった展開ももしかしたらありえたのかもしれないと考えながら、男の話に黙って耳を傾けていたのだった。私は用心深いというより、一種のぼんやり屋でしかなかった。喫茶店で男が飲んでいたのも実はアイスコーヒーで、氷をかき混ぜるストローが溶け出した液体を勢いよく吸い上げた。男は話の続きをはじめた。テーブルの上でグラスの氷はほとんど溶けていた。私はなにも言わなかった。男が逆の立場だったら言うかもしれない。その違いはどこにあるのだろうか。それは本当に私と男の違いなのだろうか。だが、男も口をつぐんで眉根を張り上げ、ため息を口腔に満たしたことが無精ひげの目立つほほの膨らみに示したからといって、男と私が同じだとは言えないのだ。店内では、パティ・スミスのライブ音源がかかっていた。考えてみれば、男と私は全然似ていなかったし、身長は二十センチも違った。
「彼女には、ただあふれ出るのを見たいがために換気扇を止めた浴室の風呂がまをお湯でいっぱいにすることがあったが、それだけが自らの緊張をしずめることをドラッグストアのお客様一点限りの特売のシャンプーを手に取るまえに気づいていたし、彼女の後ろには明日の彼女がそっと控えていることも、また昨日の彼女が手にとってため息とともに棚に戻した商品を再び買い物籠に放り込んだことを知っていた。なぜといって、毎日通勤する脚を縛りつける緊張は緩めることで楽になったが、ほどけた縄のうしろにうずく皮膚の赤みを見ることなしには回復を欲しない性分を痛いほど知っているため、再び硬く引っ張る結び目は以前よりも少しだけきつくなっていたからだ。万人にひらかれた単一の消費行動による在庫整理がおおっぴらに行われているあいだは小石を拾ってでたらめに投げた方向に進み石が落ちた地面の半径に落ちている小石を拾って投げたあの少女時代の一人遊びに耽った感触を忘れずにいることができたが、思い出すことが記憶をなんら補強せず、かえって木々のあいだを走る風の音や足元をくすぐる草の葉を失い、目の前の商店街がすごろくゲームのように眼前に伸びている帰路を寄り道せずに小走りに突き進むように、すべては新装開店の蛍光灯の既視感のなかに吸い込まれていった。深刻になるなら教えてほしい、包み隠さず忘れたことまで思い出して欲しいと願いながら、俺はときおり自らを万能感に浸らせ、いっそう老け込ませる相槌を繰り返していた。だが、いつまでもはっきり理解できないのは、与えられた役割を果たすことで衣装を着込んだのか、ギリシア人のように白い布しかまとっていないのかのどちらであるかで、俺は自分の息の匂いを手のひらのうちにそっと嗅ぐことになるのかどうかということだ。俺はきっとそのために命を落とすことになる。ただ自らの息の匂いを嗅ぐために断崖から己を支える二本の腕のどちらかを離すことになり、結局は残った腕も、俺に衣装を与える確信的なはからいによって離さざるをえなくなり、生き延びるためには空を飛ぶ方法まで考えださなければならなくなるのだ。なぜなら、二本の腕だけが俺にとって真に役立つものであり、また俺を奈落へ突き落とすものであるからだ」
「彼は彼女の生存を支え、いずれは胃潰瘍に発展する最初の黒ずんだしみを見逃しはしなかったし、しみが次第に広がりくぼんだ桃色のひずみをうがつ最初の瞬間が痛みとともに訪れるまでは、無傷のままでいたいと願っていることも知っていた。そこには越えがたい溝があり、時間のほかには自分だけがその溝を飛び越えることができると感じることはなかった。なぜなら、その溝は彼も引きずり込んで脚の骨を折ってしまいかねなかったし、落とし穴の存在に気づきながら眼をつぶって進むほうがいっそう勇気のいることだという思い上がりは必ずや別の穴を用意することになるものだからだ。他人の問題のほうがうまく答えられるという人間がこの世界にあまりにも多いのは、結局のところ危険を他人とともにしたいと願う人間がだれもいないことの確実な証明だった。真の危険は他人とともにあることだという結論がまやかしであるのも彼は知っていたが、綱渡りは地面があるから怪我をするのではなく、結局はふらつく足元に寄せられる視線が招くものだという洞察は拭いがたかった。なぜなら、綱のうえを足先が離れる瞬間、彼の放つ生命の光はどこかに飛び去りながらもまつげの下の瞳を一瞬照らし出すからだ。その瞳が二対しか存在しないということは、実は誇るべきことであり、そのようにして彼は綱のうえに立っているのだが、続く闇があまりに濃いために、綱の上は暗く閉ざされていて震える肉体は重い闇を振り払うことができない。綱渡りの男は歯噛みしながらも、闇が重力から身を守ってくれる唯一の存在であることを身をもって知ることになるだろうし、二対の瞳が光を宿すとき、彼はあっけなく墜落する自分の肉体につばをはきかけながらも照らし出す鏡に感謝の念すら抱くだろう」
「彼女はいつも最初のひと言を口にしたあと、ひどく間延びした調子で続く言葉がのど元で渋滞するにまかせる。悩みを声に出すことではなく、悩みを克服しようとする話を人が聞きたがっていることはだれでも知っているし、克服は単調でばかばかしい解決策と無色透明な、ときには彼女自身の存在さえ、思考する彼女さえ存在せず、悩みだけが蜃気楼のようにあたりをぼんやりと漂わせ、苦悩するのはただ彼女に順番が回ってきたからでそれ以上の深い理由はないし、もしあるとすればここから即刻立ち去らねばならないという事実しか告げないことがだれかの口の端まででかかっているのを間近に見ることになるだろう。だから重みは自分ひとりの足にかけるに限る、なぜなら、結局は背中にくくりつけられた氷嚢が溶け出すのを待つまでは重力がすべての憐憫に負荷をかけるからで、滴る水が汗と交じり合うまでは一切手を触れてはならないからだ。そして足元に水溜りができるとここで転ぶ不運な人がいる気がして、するとすでに後ろには事情を知らない人々の行列ができていて、彼女の声はかすれて届かない。できることといえば遠ざかることだけで、俺は声をかけるまえに彼女が立ち去ったことを、一度は確かに俺の耳に届いたはずの声を、彼女がただ早口で述べ立てた意味不明な音声を覚えている。だから彼女は、ある冬の寒い日、植樹されていない広い公園に立ちながら、天井から聞こえる騒々しい足音を聞いている」
「私は目をつぶる。いいえ、足音がだれのものでもいいの。ときにはそれが私自身のものであるのかもしれないし、だれか他人のものであるのかもしれない。問題は、それがいつも天井から聞こえてくるということで、部屋のなかにいると、すべての足音で建物全体が震えているのがわかるの。地面は私の頭上にしかない。私が踏みしめているこの床がみしみしたてる音は、きっと私のさらに下にいるだれかに届いているのかもしれず、そんなことを考えながら私はアパートの一階に住んでいることにいまさらながら気づくの。とんでもない。足音はやっぱり下に向かうんだって。そうに違いない、でも、結局上にいる人間は、足音のことを下にいる人間以上に深くは考えないし、そんなものがときおり聞こえたとしても、自分の足音でたやすくかき消してしまうんだわ。ねえ。なんで悩み事を話すとき、へりくだらなきゃいけないの。もしかして私だけがそんな気がしているだけ?」
「だから俺は話を聞くよって言わなかった。俺を使えって言ったんだ。なんに使うかは知らん。でも、その機会はすぐ訪れた。来週まで納品する発注書にミスがあって、その責任をかぶったんだ。彼女は俺を使った。俺は気にしてないよ。まじないの言葉があるからね。くじらのめだかくじらのめだか」