(その百二十九)マックス・マザッパ

 僕がお年寄りの乗客に、デッキチェアをたった二つの動作で折りたたむ技を教えていると、マザッパさんがこっそりとそばにやって来る。腕をからませ、僕をひっぱっていく。「ナチェズからモビールへ」と説教調で。「メンフィスからセントジョーへ……」僕の戸惑いを見て、ちょっと口をつぐむ。
 こんなふうに唐突な現れ方をするから、いつも不意をつかれてしまう。プールの端まで泳いだところで、いきなり腕をつかまれる。濡れた腕が滑るのをものともせず、僕を壁ぎわに立たせ、自分はその場にしゃがみこむ。「いいか、不思議くん。女どもは甘い言葉で誘い、色目を使ってくる……僕はいろいろ知ってるから、おまえを守ってやってるんだ」でも、一一歳の僕には、守られているなんて思えない。何も起こらないうちから、キズつけられたような気がする。もっとどぎつくて黙示録めいているのは、僕たち三人がそろっているときに話す内容だ。「こないだツアーから帰ったら、俺の馬小屋でどこぞのラバがはねてやがった……この意味わかるだろ?」三人ともさっぱりわからない。説明してもらってやっと納得する。でも、たいていは、彼が話しかけるのは僕だけだ。まるで僕が本当に“不思議くん”で、たやすく心を動かせる相手みたいに。まあ、その点では当っているかもしれない。
 マックス・マザッパはいつも正午に起きて、〈デリラ・バー〉で遅い朝食をとる。「ワン・アンド・ファラオとナッシュソーダをくれ」と注文し、カクテルのチェリーをかみながら料理が出てくるのを待つ。食事を終えると、コーヒーのカップを持って舞踏場へ移動し、ピアノの高音部にそれを置く。そして、和音を弾いて気分を盛り上げながら、そばにいる人間をつかまえて、この世の重大事や複雑なあれこれについて語り、教訓をたれる。日によっては、いつ帽子をかぶるべきだったり、タンゴのつづりについてだったりする。「まったく無茶な言葉だよ、英語ってやつは。あり得ない! たとえば、“EGYPT”。こいつが厄介だ。絶対にまちがえずにつづる方法を教えてやろう。このフレーズをこっそり繰り返せばいい。『Ever Grasping Your Precious Tits』ってな」確かに、僕はそのフレーズを決して忘れなかった。こうしてこれを書いていても、心のなかで単語の頭を大文字にしながら、いまだになんとなく恥ずかしい。
 だが、一番多いのは、音楽の知識を疲労することだった。四分の三拍子がいかに精緻なものであるか説明したり、色っぽいソプラノ歌手から舞台裏の階段で教わったという歌を思い返したり。だから僕たちは、彼が情熱的な半生を送ってきたのだと思いこんだ。「汽車に乗って旅に出て、君のことを考えた」と彼がつぶやくと、悲しみにやつれた心の声を聞いている気がした。でも、今になって思えば、マックス・マザッパが好きだったのは、音楽の構造とメロディーの一つ一つだったのだ。だって、彼の十字架の道行きが、すべて実らぬ恋と関わっていたわけではないのだから。
 マザッパさんはどこのものともわからぬ訛りで、自分の半分はシチリアの血、もう半分は別の血だと語った。ヨーロッパで働き、アメリカ大陸を少し旅したのち、いつしか熱帯地方にたどりつき、港の酒場の上で暮らすようになったそうだ。彼は僕たちに、「香港ブルース」のコーラスを教えてくれた。あまりにたくさんの歌と暮らしが身についているので、真実と作り事が混ざりあって、とても見分けがつかなかった。無知まる出しの僕たち三人をかつぐのなんて、ちょろいものだった。さらに、海の陽光が舞踏室の床にちらちらと射すある午後、マザッパさんがピアノの鍵盤をたたきながら口ずさんだ歌のなかには、僕たちの知らない言葉があった。
 悪女。子宮。
 相手は思春期にさしかかっている少年たちだから、自分がどれだけの影響を与えるか、彼には分かっていたのだろう。その一方で、彼はこの若き聴衆に対して、音楽における名誉についても語って聞かせた。もっとも賞讃する人物はシドニー・ベシェ。パリのステージで演奏していたとき、音をはずしたと責められて、相手に決闘をいどみ、けんか騒ぎを起こして通行人を傷つけ、投獄されて国外追放になった。「偉大なるベジェ――バッシュ――そんなふうに呼ばれていたよ」マザッパさんは語った。「おまえら、この先ずっとずっと長く生きなきゃ、そんなふうに新年をつらぬく場面に出くわすことはないだろうな」
 マザッパさんの歌とため息と語りが描きだす、国境を越えた壮大な愛のドラマに、僕たちは目を丸くし、強い衝撃を受けた。彼の仕事がどん詰まりになったのは、誰かにだまされたか、あるいは女性を愛しすぎたせいではないかという気がした。

   月がめぐり、空の月は形を変える
   そう、月がめぐり、空の月は形を変える
   そして悪女の子宮からは血が流れる

 ある午後、マザッパさんが歌った詩には、浮世離れした、決して忘れられない何かがあった。言葉の意味は問題ではない。一度聞いただけなのに、揺るがぬ真実のように心のなかに潜みつづけ、それ以来ずっと逃れられなくなるほど率直だった。その歌詞(ジェリー・ロール・モートンのものだと後に知った)は正真正銘、水も漏らさない完璧さだった。でも、当時の僕たちは、あまりの露骨さに戸惑って気づかなかったのだ――あの最終行の言葉の、思いがけなくも運命的な韻が、冒頭の繰り返しに続いて実に効率よく現れていることに。やがて僕たちは、舞踏室にいる彼のところから散っていった。ふと、はしごの上で晩の舞踏会の準備をしている旅客係を意識したからだ。色つき電球にクレープ紙のアーチをかけて、部屋を十字に飾っている。大きな白いテーブルクロスをパッと広げ、木のテーブルにかぶせる。各テーブルの真ん中に花瓶を置き、がらんとした部屋をロマンチックであか抜けた場所に変えている。マザッパさんは僕たちと一緒に出てこなかった。ピアノの前に座ったまま、まわりで行われている小細工にかまわず、鍵盤を見つめていた。その夜、オーケストラとともに何を演奏するにしても、たった今引いてくれたものとは別物になると、僕たちはわかっていた。

                 ***

 マックス・マザッパの芸名――本人いわく“リングネーム”――は、サニー・メドウズだった。フランスで演奏したときの宣伝ポスターで間違われ、以来その名を使うようになった。おそらくプロモーターが、彼の名前のアラブ色を避けたがったのではないか。オロンセイ号で、ピアノ教室の告知をする掲示にも、「ピアノの名手、サニー・メドウズ」と記されていた。だが、〈キャッツ・テーブル〉の僕たちにとって、彼はあくまでもマザッパだった。“太陽さん”とか、“牧草地”といった言葉は、およそ彼の性質にそぐわなかったからだ。楽天的なところや、よく刈りこまれたところなどはなかった。それでも、音楽に対する彼の情熱は、僕たちのテーブルに活気をもたらしてくれた。昼食のあいだ中、“ル・グラン・ベシェ”の決闘の話で楽しませてくれたこともある。一九二八年、パリの朝早く、その決闘はしまいには銃撃戦めいたものになった――ベシェがマッケンドリックに向かってピストルを撃つと、銃弾は相手のボルサリーノ帽をかすってから、出勤途中のフランス女性の太ももにおさまった。マザッパさんはその様子をすべて身ぶり手ぶりで語った。塩入れと胡椒入れろチーズを一切れ使って、銃弾のたどった道筋を表してみせた。
 ある午後には、僕を船室に招いて、レコードを聞かせてくれた。マザッパさんによると、ベシェはアルバート式のクラリネットを使っていたそうだ。どっしりして豪華な音がでる楽器だという。「どっしりして豪華」と彼は何度も繰り返した。SP盤のレコードをかけ、曲に合わせて小声で歌いながら、あり得ないような高音や、かっこいいフレーズを指摘してみせた。「ほら、彼は音を絞り出すんだ」僕はわけがわからないながらも、畏敬の念を抱いていた。ベシェがメロディーを繰り返すたび、マザッパさんは僕に合図した。「太陽が森の地面に射すみたいだ」と行っていたのを覚えている。つやつやしたスーツケースの中を手探りして、ノートを一冊取り出し、ベシェが教え子に言った言葉を読みあげた。「今日は音を一つ指定する」ベシェは告げた。「その音を吹くのにいくつやり方があるか見てみよう――うなってもよし、かすれてもよし、半音下げてもよし、上げてもよし。何でも好きなようにやってみろ。話をするみたいなもんさ」
 マザッパさんは犬の話をしてくれた。「ベシェと一緒によくステージに上がって、ご主人の演奏中にうなり声を出していた……ベシェがデューク・エリントンと縁を切ったのは、それが原因だったんだ。デュークは犬のグーラがステージ上でライトを浴びて、自分の白いスーツより目立つのが許せなかったのさ」。そして、グーラのせいで、ベシェはエリントンのバンドを去り、〈サザン・テイラー・ショップ〉を開いた。そこは楽器の修理やクリーニングをするほかに、ミュージシャンのたまり場にもなった。「彼が再考の録音を残したのはその時期だ――『ブラック・スティック』とか『スウィーティー・ディア』とかな。いつかおまえもそういったレコードを片っ端から買わずにはいられなくなるよ」
 それから、女性関係について。「まあ、ベシェは懲りないやつだった。結局いつも同じ女のところへ戻るんだ……いろんな女たちが彼を手なずけようとした。でもな、一六のときから巡業に出て、あらゆる土地のあらゆるタイプの女をもう知り尽くしていたんだ」あらゆる土地のあらゆるタイプ! ナチェズからモビールまで……。
 僕は耳をかたむけ、わからないままにうなづいていた。一方マザッパさんは、まるでそこに生き方と演奏技術の手本が隠されているとでもいうふうに、聖人の楕円形の肖像画を抱きしめた。

              (中略)

 マザッパさんもまた、ポートサイドで去っていった。タラップがたたまれて片づけられても、僕は彼が戻ってくるのを待っていた。ミス・ラスケティも僕たちのそばにいたが、出航の鐘が響きはじめ、かたくなな子どものようにしつこく鳴るうちに、そっとその場を離れてしまった。それからタラップそのものが埠頭から移動されていった。
 最近やっとわかったのだが、マザッパさんとミス・ラスケティは、当分ずいぶん若かった。彼が船から消えたあのとき、ふたりとも三十代だったに違いない。マックス・マザッパはアデンの港を出る頃までは、〈キャッツ・テーブル〉の誰よりも元気に満ちあふれていた。ぶしつけなほどの屈託のなさでみんなをまとめ、にぎやかな食卓にすることにこだわった。怪しげな話をささやくときでさえ、あけっぴろげだった。おとなにも喜びがあるのだと教えてくれた。でも、僕にはわかっていた。未来はそんなに劇的で楽しくいんちきなものではない。彼がカシウスとラマディンと僕のために語ったり歌ったりしてくれたようなものではないのだと。彼はとにかく豪快で、女性の魅力も欠点も知り尽くし、すばらしいピアノのラグタイムやトーチソング、違法好意や裏切りにもくわしかった。完璧な演奏をしたいという名誉を守るために発砲した音楽家がいることも、シドニー・ベシェのジャズナンバーの短い空白にダンスフロアじゅうから「オニオンズ!」と声が上がることも話してくれた。そして、男は「Ever Grasping Your Precious Tits」ということも。彼が僕たちのために作ってくれたジオラマには、なんという人生が描かれていたことか。
 だから、いつの間にか彼の心を侵したものが何なのか、僕たちには見当もつかなかった。偉大なるベシェの弟子に、どす黒い闇が入りこんだようだった。僕はマザッパさんの何を理解していなかったのだろう。ミス・ラスケティとのあいだで育まれていた友情に、ちゃんと気づいていなかったのか。タービン室の集まりで、僕たちは大恋愛の物語をでっち上げた――ふたりが食事の合間に礼儀正しく席を立ち、たばこを吸いに甲板へ出て行く様子。外はまだ明るく、木の手すりにもたれるふたりの姿が見える。世の中についてお互いが知るあれこれを語りあっていたのだろう。彼女の裸の肩に、彼が上着をかけてあげたこともある。「インテリ女かと思ったよ、最初はな」と彼女について言っていたっけ。
 マザッパさんがオロンセイ号を降りてから一日か二日、あらためて彼のことがさまざまに取り沙汰された。たとえば、なぜわざわざ二つも名前が必要なのか? それに、子どもがいることもまた話題になった。(うちのテーブルの誰かが、「授乳について話していた」と言いだした。)それで僕は、その子たちも僕たちが聞いたのと同じ冗談うあ忠告をもう聞かされていただろうかと考えた。また、こんな意見もあった。おそらく彼は、ここからあそこまで行くというような、自由の身でいるあいだに限って、陽気でいられるタイプの人間なのではないか。「もしかしたら、何度も結婚してるのかも」ミス・ラスケティが静かに口をはさんだ。「彼が死んだら、未亡人が同時に何人も生まれるんじゃないかしら」。そこ言葉のあと、みんなは黙りこんで、彼女もプロポーズされたのだろうかと想像を巡らした。
 僕は、ミス・ラスケティがマザッパさんの下船で打ちひしがれ、青ざめた顔をしてテーブルに現れるものとばかり思っていた。ところが、旅が続くうちに、彼女は仲間うちでいちばん不思議で、驚くべき存在になっていく。彼女の発言には茶目っ気たっぷりのユーモアが感じられた。僕たちのそばに来て、マザッパさんがいなくなったことを慰めてくれ、自分も寂しいと言った。その「も」という言葉がまるで宝物に思えた。いなくなった友の神話が続くことを僕たちが求めていると察した彼女は、ある午後、マザッパさんの声音をまねて、こんな話をした。俺の最初の結婚は、まさに裏切りで終わった。いきなり家に帰ったら、女房があるミュージシャンと一緒にいたんだ。そして彼はミス・ラスケティにこう打ち明けた。「もし銃を持ってたら、そいつの心臓に一発お見舞いしていたところだ。だが、部屋にあったのは、やつのウクレレだけだった」彼女はこの逸話に吹き出したが、僕たちは笑わなかった。
「彼のシチリア人らしい態度がとても好きだったわ」彼女は続けた。「たばこに火をつけてくれたときもそう。腕をいっぱいに伸ばすの、まるで導火線に点火するときみたいにね。肉食動物みたいに思われがちだけど、線の細い人なのよ。言葉の選び方や口調が堂々としているだけ。わたし、仮面やペルソナについてはよく知ってるの。専門家だからね。彼は見かけより優しい人だった」こうした話を聞くと、やっぱりふたりのあいだには熱い気持ちが通っていたのではないかと思われた。彼について話す彼女の口ぶりからして、互いに心の友であることは確かだった。「未亡人が同時に何人も」というせりふとは裏腹に、というよりも、だからこそよけいに、もしかしたら、船の電報を使って連絡を取りつづけるかもしれないので、無線通信士のトルロイさんに聞いてみようと思った。だいいち、ポートサイドからロンドンまでは、それほど遠くない。
 やがてマザッパさんの話はふっつり途絶えた。ミス・ラスケティでさえ話題にしなくなった。彼女は自分の殻に閉じこもってしまった。午後はたいていBデッキの日陰で、デッキチェアにいる姿が見られた。いつも決まって『魔の山』を持っているのに、読んでいるところは誰も見たことがなかった。よく犯罪スリラーのページをひらいていたが、どれも期待はずれのようだった。彼女にとって、この世はどんな本のストーリーより思いがけないものだったのではないだろうか。彼女が、読んでいた推理小説にひどく苛立って、日陰の椅子から腰を浮かし、そのペーパーバックを手すりの向こうの海へ投げ込むところを、二度ほど見かけたことがある。


マイケル・オンダーチェ『名もなき人たちのテーブル』田栗美奈子訳 作品社 二〇一三年八月二七日発行 三二〜三八、一八六〜一八九頁
THE CAT'S TABLE Ondaatje , Michael

(その百二十八)リー我ロイ矢ル貞男

 彼とはよく、スナックのママに霊感が強い女が多いのはなぜだろうと話し合ったものだった。当然のようにLの話になった。
後年になってLにその話をすると、手を叩いて喜んでいた。もっともLにしてみれば、彼の態度にはどこか慇懃なところがあって最後まで好きになれなかったということだったが。「少女がはすっぱな態度を取りたいがために煙草を口にくわえたときに、あいつはいつでもライターを差し出したわ。腕をいっぱいに伸ばして、にやにや笑いを打ち消したような不自然な表情で」
 私はその言い分を聞いて、私が彼らと会うずっとまえに、Lと彼とのあいだにはなにか関係があったのではないかと邪推した。

(その六)書斎

 その細長い書斎をさして、開高健は鳥小屋と呼んだ。自宅と隣家とのすきまの狭い露地に柱を建て並べ、その上に鳥の巣をかけわたすようにして造られていたからである。同じような理由から書斎の主は鳩小屋と称していた。外構えはたしかに鳥小屋ふうだが、しかし、内部の造りからいえば、そては輸送機のコックピットと呼ぶほうが似合いそうだった。前方の窓に向って机を据え、その上に置時計やカレンダーや索引カード、両脇に小型辞書などのいわば計器類を並べ、椅子は操縦席にいかにもふさわしく背もたれの高い回転椅子、その真うしろに乗客用の低い椅子が二脚。後部の空間は天井まで積荷で埋まっている。荷はすべて本である。
 やがて書斎の主、というよりパイロットが乗り組んできて、操縦席につく。折しも冬のさなか、裏に毛皮を張った陸軍航空隊の機上服を着こんで。
 そのパイロットの名は谷沢永一。顔は白皙といっていいのだが、髭の強いたちらしくて剃りあとがむやみと青々としているうえに眼が鋭く、気やすく声をかけにくいところがある。それが、笑うと文字通り顔が破け、輪郭が崩れ、眼が溶けて、まだ若いのに好々爺と呼んでみたい感じに鳴る。
 昭和二十五年一月の終りのある夜。その書斎の椅子に腰かけて、きつくなったりゆるんだりする谷沢永一の表情を興ありげにしばらく観察していた開高健は、やがてポケットから一通の分厚い手紙をとりだした。谷沢永一は眼を剥いた。開高健の処女作『印象生活』の読後感を綴って、前日の朝、当人にあてて投函したばかりの手紙だったからである。何やらこれはえらいことになりそうや、彼は顔をひきしめて身構えた。開高健はほめてもらえたことについてまずにこやかに礼を言ったが、こういうときは得てしてあとが危い、はたして文中不審の条々を問いただすカン高い声がコックピットに響きわたり、おそらく両人自身予想していなかったであろう丁丁発止の壮烈な論戦の幕が切っておとされることになった。


向井敏開高健 青春の闇』文藝春秋社 平成五年二月二五日発行 初出「別冊津文藝春秋」(一九四〜一九七)掲載分に加筆訂正 三六〜三七頁




 谷沢永一はまだ学生だったころ、「父の小遣い」で渉猟した大量の蔵書に囲まれた書斎を開高健に快く解放した。開高健の『耳の物語』によると「借りだした本をノートにつけておくこと、かならず返還すること、この二つの条件を守りさえするなら、いつでも、何冊でも持っていってよろしいといわれたので、恍惚となった。文学作品についていえば内外、古今を問わず、ありとあらゆる全集があり、単行本があり、歴史物、伝記物、紀行物も目白押しであった。そこへ哲学、心理学、経済学なども山積みになっているので、いつも夜おそく書斎へ入っていくたびに古本の岩壁、峠、川、湖、森を眺めわたして、処女峰征服を注意したアルピニストのような高揚をおぼえさせられた。荒涼と孤独が昼夜なしになだれこんでくるのではあるけれど、この書斎と書物があるかぎり、何とか踏みこたえることができた。」生活苦から本を買うことができず、幼少時に影響を受けたほとんどの小説を町に四五軒ある書店で立ち読みして読了した開高健は、二〇歳になっても「施盤工場や、パン工場や圧延工場」、「虫下しの原料になる海人草を鉈できざむという、単調な仕事」に追われて満足に本が買えない生活がつづいていた。したがって、谷沢永一の申し出はさぞかし魅力的だったのだろう。自身の窮迫した生活を人に悟られることをだれよりも忌避した開高健が谷沢にだけは心を許したのは、しかし蔵書解放の魅力だけではなく、「批評家となるべくして生まれ」、「筆致の軽妙と警抜、観察の的確と辛辣」さを持つ谷沢永一の資質に、将来の永きにわたる好敵手を認めたからだ。開高健谷沢永一は、互いに影響を与えあい、激烈な言葉で罵りあった。同人誌「えんぴつ」恒例の合評会や中之島の中央公会堂で開かれた文学研究会(木曜会)での両者のやりとりを、向井敏は眼に見えるように描いている。この合評会は、血も涙もない猛者たちが集まり、参加者が思わず「ホロコースト」を想起するほど苛烈だったために、合評会の参加者は減り、小説の投稿はついにゼロになり、「えんぴつ」は一七号を持って解散した。解散から一年あまり経ったころ、谷沢永一は唐突に開高健に「絶交」を宣告する。開高健は皆目理由がわからず(「絶交するいうんや。なんでかわからん。こっちに何か落度があったんやろか」)、後年谷沢永一が回顧した文章によると自身の「持病の鬱症」の悪化を理由に挙げているが、向井敏は「交際上の節度をさとらせようとしたのではないかと思う」と書いている。

 
 開高健は自分の生活のみじめさを人に知られて、人にあわれまれはしないかという屈辱の予感におびえながら、少年期をすごしてきた男である。そのおびえは二十歳を過ぎてもなお彼をとらえてい、さまざまな形で彼を束縛していたと思われるのだが、谷沢永一と知り合って、この人物に対してであれば、あらゆる警戒を解いてやっていけると直覚したのにちがいない。彼は谷沢永一になら何を知られても恐れなかった。しかし日を経るにつれて、その安堵感はしだいに嵩じ、甘えに近いものがあって、やがて、これ以上はいりこませては危険だと谷沢永一に感じさせるまでにいたったのではあるまいか。
 だからといって、あからさまにそのことを指摘したりしたら、感覚細胞の塊のような開高健がどんな反応をするか、知れたものではない。考えぬいたすえ、谷沢永一は人と人とが安んじてつきあっていくにはある距離が必要だということをさとらせるために、絶交宣言という荒療治をおこなったのではなかっただろうか。おそらく彼は、時期を見てその宣言を撤回するつもりだったのであろう。


 この絶交は結局一年半つづいた。絶交期間中も、谷沢はコックピットのような書斎を開高健に解放しつづけた。「書斎に風呂敷包みをかつぎこんで、借りた本を返し、ノートに×をつける。ついで書斎のあちこちをあさって新しく本を借り、ノートに署名をつけ、風呂敷に包んで退散する。」そのあいだ、ふたりはひと言も口をきかなかった。本に顔をうずめて眼を光らせている谷沢永一を、帰り際に開高健はそっと見つめた。路地に出た開高健は、何度引き返して絶交の理由を訊ねたいと思ったか知れないが、引き返すことはなかった。
 その後も谷沢永一は、ライバルに対して「交際上の節度」を守った。「新日本文学」の昭和三二年八月号に『パニック』が掲載され、文芸時評平野謙の激賞を受けて華々しい文壇デビューを飾ったとき、谷沢永一は岡山の山中にこもって「『パニック』読後」と称する原稿用紙三十枚ほどの評論を書き上げていた。そこには、「開高健の作家的将来にとって致命的となるかもしれない弱点の解析」が、文字どおり緻密にして論鋒鋭く書き連ねられていたが、谷沢は「当人に見せたのちはどこにも発表せず、だれにも読ませず、手許にしまいこんでしまった」。その評論が初めて世に出たのは、開高健が小説家として押しも押されぬ存在となった一五年後のことである。

(その百二十七)アフタリアン

 その男というのは小柄なルーマニア人で、パリにきたころには、カフエで、とくにラ・ロトンドで、モデル女や物好きな女たちや、レジスターの女たちに絹のストッキングを売っていた。彼はまず、この世に画家というものがいることに驚き、つぎに、絵が売り物になっていることに驚いたのだった。彼は絵を買った。そして、五、六スウの金を儲けた。それで、ストッキングを売る方の仕事をやめた。裏口の階段を昇って、事務所にストッキングを売って歩く代りに、金持の立派な界隈の立派なエレベーターに乗って、絵を売り込んだ。
 最初、人々は彼にほどこしものをするよりは面倒ではないので、絵を買っていたが、のちには投機心から買うようになった。
 アフタリアンは脂じみた髪の上に、安値で買った山高帽をかぶり、よごれたワイシャツに、裏がみえる紐のようになったネクタイをつけていた。そして、彼を迎える家に行っては、画家たちの悪口を言い、ぞんざいな口調で、こう言うのだった。
「絵かきなんて、われわれとおなじ社会の人間じゃないですよ……」
 彼の話し相手になる者は、この脂じみて汚れた愚鈍な男が語るウェルギリウスふうの感情とか、森のリズムとか、肉体の優しさとか、某画家の肉感性と別の画家の感受性の差異とか、また光の精神だの、色彩の官能だの、あちこちで彼が聞きかじった絵かきたちの隠語をひとつ残らず聞かねばならなかった。
 直感的な心理学者だった彼は、もし美術愛好家が近代絵画のいちばんつまらないものにでも興味をもったが最後、その人間は病みつきになり、とりつかれ、不治の病や黴毒におかされたようになることを、早くも悟っていたのだった。近代絵画はまるでコカインのようなものだ。そのひとつまみでも味わうと、もはややめることができなくなってしまうのである。今まで、ギヨマンをあまりにも急進的だと思っていた愛好家も、もうそれを片隅に追いやって、こんどはこれ異常堕落したものはないようなロシア人たちの絵を買うのだった。前日の絵は次の日に買った絵の前ではもう色あせるのだった。
 それに、アフタリアンは《近代絵画》をじつにうまく説明することを心得ていた!
(中略)
 現在では、彼は店をかまえていたが――まさしく矛盾する話だが――彼自身、巧みな自分の言葉に囚われて、どうしても手放すことができなくなってしまった絵を、彼と妻と五人の子供のためにゴブランに昔から持っている小さなアパルトマンに、山と積み上げていた。彼は絵は投機だからと言って、妻を安心させていたが、本当のところは、それらの絵のすぐれた色彩が彼の眼をとても楽しませているのだった。それはちょうど、彼が靴下の行商人をしていた当時、見本品の快い手ざわりが彼を幸福感にひたして、それをしばしばポケットのなかにしまいこんでしまったのと同じだった。
 もちろん、彼は売ることよりは買うことの方をずっとよく心得ていた。ある絵かきが苦境におちいる日を待つことを彼は知っていた。またほかの絵かきにはその全作品に対して、わずかな月々の手当を保証したりした。珍しい掘り出しものを捜し出し、ときどきはひどい見当はずれをしたりしたが、そんなときは、大切にしていたものを突如として手放し、また別なものを手にいれるのだった。彼の言い草にもかかわらず、キュビストの大部分の連中、とくに彼の仲間うちの連中は大成しないだろうと、漠然と感じていたので、《もう少し肩のこらない、ああしたキュビズムの馬鹿どもの連中のまっただなかに爆弾のように投げこんでやれる》絵を描く人間を辛抱づよく待っているのだった。
 だから、モジリアニとズボロフスキーが店にはいってくるのを見たとき、この年老いた画商の心ははずんだ。


M・ジョルジュ=ミシェル『モンパルナスの灯(モジリアニ物語)』山崎剛太郎訳 講談社講談社文庫版)昭和五四年九月一五日発行 四八〜五四頁

(その百二十六)アリス・プラン

 有名なキキも客の一人だった。モンパルナスに来たばかりだった私は、彼女が界隈の女王的存在であるとは知らなかった。しかし、彼女の個性は人を引きつけ、声には独特の魅力があって、エクセントリックな美しい顔をしていた。メーキャップそのものからして芸術的で、眉毛はきれいに剃ってスペイン語のnのアクセントみたいなデリケートな曲線に置き換えられていたし、睫毛の先には少なくとも茶匙一杯分のマスカラをつけている。そして深紅に塗りたくった口は茶目っけた輪郭にエロティックなユーモアを漂わせ、漆喰じみた頬の白を背景に燃え立っていた。頬には一か所、片方の目の下に非のうちどころのないほくろが書き入れていった。彼女の顔はどの角度から見ても美しかったが、私は真横から見た顔の輪郭が鮭の剥製を彷彿させていちばん好きだった。もの静かなしゃがれ声からは無害な猥褻さがしたたり落ちる。数少ない身振りには豊かな表情があった。最近脅迫のかどで告発されたジャーナリストに触れて彼女は、公衆トイレにでもほうり込んでやればいい、と容赦なく言い放った。「それから――絞首刑にするのよ」と呟いて膝をちょっと曲げ、鎖を下に引く仕草をして見せた。


ジョン・グラスコー『モンパルナスの思い出』工藤政司訳 法政大学出版局 二〇〇七年二月五日発行 二八〜二九頁

(その百二十五)黄アス弐等久大佐

 人に頼みごとなどなにひとつできない性格だったにもかかわらず、彼がその長すぎる人生のなかで、そのために不利な立場に置かれるようなことはなにひとつなかった。海軍時代においてもその後の公職追放時代においても、それは変わらなかった。ある種の命令系統が組織に所属する個人に与える不可避的な伝達経路の一環として、別の部署に頼みごとに行く機会が彼にも訪れることがあったものだが、必要な書類を小脇にドアの前に立った途端物乞いにでもなった気になったために、彼はそっと後ろ手にドアを閉め、人がいないのをいいことに判子を失敬したことすらあったが、懲罰房の湿った暗闇が彼にもたらしたのは決して後悔の念ではなかったし、彼の性格を知る上司はその件で彼の進路に不利な影響が起こらないよう訓戒のみで報告を済ましたものだった。彼の性格と彼を取り巻く環境は妥協の余地なく結びついていた。それは僥倖のように舞い落ちるものではなかったが、その継続性において彼を彼の人生から庇護していた。庇護しすぎたと言っていいくらいだ。男はその独立不羇な態度によって、彼を帰属させるあらゆる社会的な手つづきを個人的な事象にまで還元することに成功したが、その成功は社会的に見れば決して成功とは言いがたかった。だから、戦後になってあらゆる時代の変化の失望し、取り残され、自分を置き去りにする変化の潮流をほんとうには理解できないままに、彼の立場を不利にし、積み上げてきた一切の歴史を振り出しに戻すうねりの存在だけは実感せざるを得なかった彼には、どうやってこの状況を抜けだすかをひとり思案することしかできなかった。だから、その不可知論者とは言いがたい性格にも関わらず、彼は人の好意を当てにするようになった。人に頭を下げるでもなく、一〇分を一時間に、一日を一ヵ月に変える無為のなかで、ただ己の力の及ばぬものだけがたったひとつの人生の転機だとでもいうように、律儀にそのときを待った。いつしか彼の額には二本の皺が刻まれ、詰め襟の上でかしこまっていた彼の顎はたるんで威厳を失っていた。それでも彼は待ちつづけた。そんなときだけ素晴らしいひらめきが生まれたからだ。今おれを悩ませている問題は、明日にでもすべて解決しているだろう。いや、明日といわずとも、少なくとも一ヵ月後には。もう長いことかれこれ待ちつづけたんだから、これ以上遅れるわけにはいかない。この待機の時間は報われる。そうに決まっているのだ。

(その百二十四)アウグスト・ファルンハーゲン

 彼が好かれなかったのは、あれほど融通無碍だったくせに妙に原則にこだわる頑ななところがあるのと、まわりの雰囲気に鈍感なのと、なににつけすぐに白黒をつけたがって問題を先鋭化させてしまうせいだった。


ハンナ・アーレント『ラーエル・ファルンハーゲン』引田隆也・齋藤純一訳 みすず書房 一五三頁