(その六)書斎

 その細長い書斎をさして、開高健は鳥小屋と呼んだ。自宅と隣家とのすきまの狭い露地に柱を建て並べ、その上に鳥の巣をかけわたすようにして造られていたからである。同じような理由から書斎の主は鳩小屋と称していた。外構えはたしかに鳥小屋ふうだが、しかし、内部の造りからいえば、そては輸送機のコックピットと呼ぶほうが似合いそうだった。前方の窓に向って机を据え、その上に置時計やカレンダーや索引カード、両脇に小型辞書などのいわば計器類を並べ、椅子は操縦席にいかにもふさわしく背もたれの高い回転椅子、その真うしろに乗客用の低い椅子が二脚。後部の空間は天井まで積荷で埋まっている。荷はすべて本である。
 やがて書斎の主、というよりパイロットが乗り組んできて、操縦席につく。折しも冬のさなか、裏に毛皮を張った陸軍航空隊の機上服を着こんで。
 そのパイロットの名は谷沢永一。顔は白皙といっていいのだが、髭の強いたちらしくて剃りあとがむやみと青々としているうえに眼が鋭く、気やすく声をかけにくいところがある。それが、笑うと文字通り顔が破け、輪郭が崩れ、眼が溶けて、まだ若いのに好々爺と呼んでみたい感じに鳴る。
 昭和二十五年一月の終りのある夜。その書斎の椅子に腰かけて、きつくなったりゆるんだりする谷沢永一の表情を興ありげにしばらく観察していた開高健は、やがてポケットから一通の分厚い手紙をとりだした。谷沢永一は眼を剥いた。開高健の処女作『印象生活』の読後感を綴って、前日の朝、当人にあてて投函したばかりの手紙だったからである。何やらこれはえらいことになりそうや、彼は顔をひきしめて身構えた。開高健はほめてもらえたことについてまずにこやかに礼を言ったが、こういうときは得てしてあとが危い、はたして文中不審の条々を問いただすカン高い声がコックピットに響きわたり、おそらく両人自身予想していなかったであろう丁丁発止の壮烈な論戦の幕が切っておとされることになった。


向井敏開高健 青春の闇』文藝春秋社 平成五年二月二五日発行 初出「別冊津文藝春秋」(一九四〜一九七)掲載分に加筆訂正 三六〜三七頁




 谷沢永一はまだ学生だったころ、「父の小遣い」で渉猟した大量の蔵書に囲まれた書斎を開高健に快く解放した。開高健の『耳の物語』によると「借りだした本をノートにつけておくこと、かならず返還すること、この二つの条件を守りさえするなら、いつでも、何冊でも持っていってよろしいといわれたので、恍惚となった。文学作品についていえば内外、古今を問わず、ありとあらゆる全集があり、単行本があり、歴史物、伝記物、紀行物も目白押しであった。そこへ哲学、心理学、経済学なども山積みになっているので、いつも夜おそく書斎へ入っていくたびに古本の岩壁、峠、川、湖、森を眺めわたして、処女峰征服を注意したアルピニストのような高揚をおぼえさせられた。荒涼と孤独が昼夜なしになだれこんでくるのではあるけれど、この書斎と書物があるかぎり、何とか踏みこたえることができた。」生活苦から本を買うことができず、幼少時に影響を受けたほとんどの小説を町に四五軒ある書店で立ち読みして読了した開高健は、二〇歳になっても「施盤工場や、パン工場や圧延工場」、「虫下しの原料になる海人草を鉈できざむという、単調な仕事」に追われて満足に本が買えない生活がつづいていた。したがって、谷沢永一の申し出はさぞかし魅力的だったのだろう。自身の窮迫した生活を人に悟られることをだれよりも忌避した開高健が谷沢にだけは心を許したのは、しかし蔵書解放の魅力だけではなく、「批評家となるべくして生まれ」、「筆致の軽妙と警抜、観察の的確と辛辣」さを持つ谷沢永一の資質に、将来の永きにわたる好敵手を認めたからだ。開高健谷沢永一は、互いに影響を与えあい、激烈な言葉で罵りあった。同人誌「えんぴつ」恒例の合評会や中之島の中央公会堂で開かれた文学研究会(木曜会)での両者のやりとりを、向井敏は眼に見えるように描いている。この合評会は、血も涙もない猛者たちが集まり、参加者が思わず「ホロコースト」を想起するほど苛烈だったために、合評会の参加者は減り、小説の投稿はついにゼロになり、「えんぴつ」は一七号を持って解散した。解散から一年あまり経ったころ、谷沢永一は唐突に開高健に「絶交」を宣告する。開高健は皆目理由がわからず(「絶交するいうんや。なんでかわからん。こっちに何か落度があったんやろか」)、後年谷沢永一が回顧した文章によると自身の「持病の鬱症」の悪化を理由に挙げているが、向井敏は「交際上の節度をさとらせようとしたのではないかと思う」と書いている。

 
 開高健は自分の生活のみじめさを人に知られて、人にあわれまれはしないかという屈辱の予感におびえながら、少年期をすごしてきた男である。そのおびえは二十歳を過ぎてもなお彼をとらえてい、さまざまな形で彼を束縛していたと思われるのだが、谷沢永一と知り合って、この人物に対してであれば、あらゆる警戒を解いてやっていけると直覚したのにちがいない。彼は谷沢永一になら何を知られても恐れなかった。しかし日を経るにつれて、その安堵感はしだいに嵩じ、甘えに近いものがあって、やがて、これ以上はいりこませては危険だと谷沢永一に感じさせるまでにいたったのではあるまいか。
 だからといって、あからさまにそのことを指摘したりしたら、感覚細胞の塊のような開高健がどんな反応をするか、知れたものではない。考えぬいたすえ、谷沢永一は人と人とが安んじてつきあっていくにはある距離が必要だということをさとらせるために、絶交宣言という荒療治をおこなったのではなかっただろうか。おそらく彼は、時期を見てその宣言を撤回するつもりだったのであろう。


 この絶交は結局一年半つづいた。絶交期間中も、谷沢はコックピットのような書斎を開高健に解放しつづけた。「書斎に風呂敷包みをかつぎこんで、借りた本を返し、ノートに×をつける。ついで書斎のあちこちをあさって新しく本を借り、ノートに署名をつけ、風呂敷に包んで退散する。」そのあいだ、ふたりはひと言も口をきかなかった。本に顔をうずめて眼を光らせている谷沢永一を、帰り際に開高健はそっと見つめた。路地に出た開高健は、何度引き返して絶交の理由を訊ねたいと思ったか知れないが、引き返すことはなかった。
 その後も谷沢永一は、ライバルに対して「交際上の節度」を守った。「新日本文学」の昭和三二年八月号に『パニック』が掲載され、文芸時評平野謙の激賞を受けて華々しい文壇デビューを飾ったとき、谷沢永一は岡山の山中にこもって「『パニック』読後」と称する原稿用紙三十枚ほどの評論を書き上げていた。そこには、「開高健の作家的将来にとって致命的となるかもしれない弱点の解析」が、文字どおり緻密にして論鋒鋭く書き連ねられていたが、谷沢は「当人に見せたのちはどこにも発表せず、だれにも読ませず、手許にしまいこんでしまった」。その評論が初めて世に出たのは、開高健が小説家として押しも押されぬ存在となった一五年後のことである。