ジェリー・ルイス 適応の問題

 スラップスティックの伝統にもたらされた革新のひとつは、「適応」という身振りをめぐって観察することができる。「適応」は社会の掟であり、強制されながらもしだいに流暢に、掟の手前で人は果てるところを知らずに問い続けなければいけない。「適応」が単に統制といえないのは、それがいたるところで生じるからである。このシステムのなかでは、人は自分の姿を見失うほどに自己を確立するようなある幻想的な手続きを経る。魔法の効力は自己暗示の強度に左右される。同意と恭順がほどけ目なく解けあい、目標と評価がわちがたく結びつき、自分の真理と他人の真理が入り混じっていくうちに、ある日突然、人は掟の虜となる。「適応」に差し向けられる無限のといっていい好奇心は、引き出されるほどに洗練さを帯び、絶えまぬ自己主張によって確信される。人は執拗に問いかけ、その掟が呼びかけ語り出すのを固唾を飲んで見守り、やがて慎みをふり払うさまざまな口実を見つける。そして問いかけは止まない。さまざまなにかたちを変えるカレイドスコープの光学的な幻想のもとで、出生以来のさまざまな挿話が呼び寄せられ、小さな断片のきらびやかさにしかるべき意味が与えられる。それは魔法であるとともに技術でもあるから、浪費されることがない。「適応」は単に快楽だけでなく、快楽を知る実践であり、人間関係を築くだけでなく、その規則を知る実践でもある。内面的な欲求を調整する自己統御の技術であれ、世俗的な向上心を鼓舞する職業訓練の技術であれ、「適応」が働く領域は人間生活のおよそ全域に及ぶ。それは特定の領域に留まる現象ではないために、内面的な事象と社会的な事象は双方向性というあのまやかしの文句を持ち出すこともなく反響しあうだろう。無秩序に規則を、徒労に目標をもって変える勤勉で経済的な動因は、スラップスティックにおける基本的な動作である失敗への肉体的な悪あがき、すなわち「感覚運動的状況の常軌を逸した高揚」と呼ばれる恍惚的な状態のそのあまりの可視性に、別種の意味を与えることになる。失敗を取り繕う行為は陰ながら行うことができない。それは丸見えにならざるを得ないという、ハロルド・ロイドからジェリー・ルイスジム・キャリーからアダム・サンドラーまで連綿と受け継がれる不器用さの痙攣的な発作は、そのあまりにも「適応」から外れた相貌ゆえに、むしろ規制の格好の標的となるであろう。不器用さの当面の魅力は、ある芸術家の作品がパトグラフィックに理解されるのとちょうど同じように、すべてが病気の兆候として解読される点に見いだされる。だから、不器用さは社交的な病気となるだけでなく、癲癇やアスペルガー症候群が天才の負の称号となるようなある診断書の裏書きとなる。行為と素質を切り離すことはできない。彼がぎこちないのはその不器用さのせいである、という撞着語法が充分にまかり通った世界においては、ブラックジョークから人種差別表現が残らず消え去ったあとも通用する共通理解が作り出され、からかいはその反射的な動作に、気味悪さや窃視趣味はその熱心な独り遊びに向けられるだろう。
 スラップスティックの歴史のなかで、ジェリー・ルイスがとりわけ特筆すべきなのは、彼が「器用に不器用さを演じる」過程で常にこの「適応」の問題を提出しているからである。「適応」が可視化するのは、チャップリンでは警察という外敵として、キートンにおいては崩れる家屋や増殖する人間からの脱出として、ロイドにおいては堅物の上司や世間体(嘘の上塗り)として、グルーチョ・マルクスにおいては口説き易い上流階級夫人のマーガレット・デュモンとして存在していたのにたいして、ジェリー・ルイスにおいては「適応」は意志に関わる問題機制となり、訓練と叱責というふたつの場面で特徴的にあらわれる。ジェリー・ルイスは偉大な喜劇の巨匠たちが「適応」からの逸脱にアクロバティックな運動性を見いだしたのと反対に、「適応」を文字通り内面化してしまう(多くの場合失敗したミュージカルとしてジェリー・ルイスの「不器用さ」が演じられるのはそのためだ)。この内面化によって、正反対の人格がたったひとりの人間のなかに居心地悪く同居される。こうした二面性は、『ジキルとハイド』を素材にした『底抜け大学教授』(1963)であれ、男性版シンデレラストーリーである『底抜けシンデレラ野郎』(1960)であれ、薬物や魔法の力で対極の性質を身内に抱えもった人間の葛藤という物語に還元されるのだが、洗練と不器用(放蕩と純愛、不遜と誠実……)というわかり易い二項対立の図式は、女性の愛を獲得するための二本の寄り添う弓矢となるであろう。不器用さはその射程の狭さから真意を届けることができず、洗練さは数多くの色男の焼き増しに過ぎない偽証性をさらすだけで魔法の効力が切れてしまう。日本では底抜けシリーズと銘打たれた一連の作品でジェリー・ルイスがくり返し演じる負け犬の物語において、われわれが驚かざるをえないのは、最終的に真摯な分だけ不器用な矢が洗練された分だけ横柄な矢に打ち勝つわけではないということだ。猟色家の伊達男にたったひとりの女性を愛する心意気が全くないわけではないように、また不器用な男の恋情に一方的な所有欲が全くないわけではないように、彼自身の存在がひとつの証明であるような困難がさらけ出すのは、二重人格に陥った人間の意図ではなく、彼がそれを実現する方法の違いである。意図はそもそも問題視されることがない。職業訓練の過程においては業務の達成が自明視されるように、ロマンスにおいては恋愛感情が至上の価値を持つ以上、ジャンルが後押しする意図は正しくあって当然なのである。だが、ジェリー・ルイスが提示するのはこうしたジャンルの要請に忠実になることではなく、正しさが正しさでしかなく唯一の回答ではない喜劇的状況の復権である。ジキルとハイドという正反対の性格は、同じ根をもつ意図が至ったふたつの異なる達成であり、両者がたがいに対立し合うのはそのアプローチのもたらす齟齬がたった一方の側からの正当性しか証明しないためだ(ジキルはジキルでしかなく、ハイドはハイドでしかなく、ジキルはハイドではなく、ハイドはジキルではない)。こうしてジェリー・ルイスがさまざまな位相で取り上げることになる「理想我の追求とその暗黙の否定」という主題が生まれる。一方では、求められる役割を(ときに過剰に)演じきる理想我があり、もう一方では、理想我に対する反撥がある。理想我は当面の状況へのしたたかな適性によって、すでに目的を達成してしまっている。いたるところで色目を使う男の存在はそれ自体でショーであり、階段を駆け下りる足取りも軽やかにマイクを握る仕草が向けられる対象は限定されることがなく、甘ったるい歌詞は誰ではなく、誰かに向けられる。いつでも愛が不器用であらざるを得ないのは、愛すべき相手がたったひとりしかいないせいで、色男がいつでも器用に相手を口説くのは、彼の求愛行為が女性性一般へ差し向けられる異口同音の響きを失なうことがないからだ。こうして女の感じる頼りなさは、ジェリー・ルイスの分裂に対応して引き裂かれることになる。言葉を持たない男と、その言葉の真偽が不確かな男。ジェリー・ルイスが不完全なビルドゥングスロマンの主人公となるのは、不器用さが洗練との闘いのなかで手練手管を覚え、洗練さがそのかりそめの魅力を失効して醜態をさらすなかで、しだいにひとつの統合を経る段階においてである。そうしてできあがった人間は、両者の良質なキャラクターを統合した存在というよりは、例外はあれども、どことなく当たり障りのない退屈な人物である。適応という尺度で測った二極のかけ離れた性格は、その過剰さを失いマイルドになる。過剰な順応と過剰な逸脱との規則正しい振れ幅は、物語が進むにつれてしだいに縮小して、ついには止まる。われわれはこの結末に、チャップリンの『サーカス』(1929)のラストに似た別離を思わず連想してしまう。余計者は遠ざかる。チャップリンが選んだ賑やかなキャラバンの走り出したとは反対の無人の一本道ではなく、彼の深い内面のなかへ。スラップスティック初期にアメリカで好んで取り上げられた「生まれながらの負け犬」たちの、「適応」という掟に捕われ、その間口の手前であがき、敗れ去る多形的な形式は、ジェリー・ルイスによって、認知への錯誤と承認の獲得をめぐるいたって生真面目な筋書きに作り替えられるだろう。こうした印象は、職業訓練を主題にした作品においてより顕著になる。訓練と叱責というふたつのカテゴリーは、最初は不器用な人間に対する無条件の攻撃となり、やがてはやすやすと跳びこえられる階梯となる。このふたつのカテゴリーのあいだに「成長」は存在しない(『紐育ウロチョロ族』(1956)の積み木のパズルや『底抜けてんやわんや』(1960)の椅子並べの場面を見よ)。「うまくやる」ことは彼の「適応」状況の物差しにはならないのだ。『底抜けいいカモ』(1964)には印象的な場面がある。人気コメディアンの突然の死によって、代役を探さなければならなくなった台本書きやマネージャーたちは、折よく入ってきたジェリー・ルイスがお盆のうえのグラスをこぼしながら言い訳をこぼす姿を見て、このウェイターの〈笑いの才能〉に眼をつける。取り巻き連は「期待の新人」を離すまいと近づくが、当のジェリー・ルイスにとっては無言の詰問にしか思えない(追いつめられた憐れなウェイターは後ずさりしたままバルコニーから転げ落ちる)。こうした誤解は不器用な人間が否応なく引き起こす典型的な状況を作り出すが、見過ごしてはならないのは、この場面である重要な逆転が起こっていることだ。ジェリー・ルイスの喜劇は、古典的な児童映画の主題を反復する。児童映画の世界では、幼い主人公たちを悪の道に引きずり込むのは貧困や劣悪な家庭といった外的な環境であり、少年の生活を正すのはひとえに節度ある大人の助言にかかっている。こうして非行に走った少年の再教育という物語とその顕揚としての少年の持ちうる本来的な無垢への信頼という児童映画に典型的な主題が生まれるのだが、ジェリー・ルイスはこのくり返された原型の独特の焼き直しを演じる。彼は少年にとっては客観的な矛盾として存在していた貧困を、不器用という内面的な矛盾に置き換える。ドタバタ的ジェスチャーが独り遊びに限定されるのはそのためであり、周囲の大人たちの教育手段がもっぱら身をかがめたり、見下ろしたり、怒鳴り散らしたりする行為において観察することができるのは、不器用さという社会的不適合の烙印が彼の捨てられない幼児性と断じられるからに他ならない。こうして児童映画の顕揚する純粋さは単なる信じやすさに還元され、無垢なる魂の限りない善意への志向は社会的な有用性によってのみ判定される。喜劇映画に生じた新たな展開が最も顕著にあらわれるのは、物語世界で引き起こされる「笑い」の両義性の喪失においてであろう。かつての伝統的なルーザーたちが出会うのは、多くの場合無慈悲な嘲笑であり、まれに気のいい酔っぱらいから寛大な高笑いを受けるが、それとても長くは続かない。彼らの失敗は度を過ごしており、二本の脚を地上に張りつけたままの笑いはすぐさま追いかけっこの疾走に変わるからだ。状況の理解よりもその場の流れに乗ること。ドタバタ喜劇のこの恐るべき伝染性は、笑いから一切の距離の感覚を奪いさってゆく。安心できる場所はどこにもない。地球は丸く、遠ざかろうと背中を向け合うふたつの流れは路地の交差点で出会い頭に衝突してしまう。笑いはもっとも役に立たない空間把握の方法となるばかりでなく、笑う顔と肩を揺すぶる仕草は彼が次に起こりうる事態に全く気づいていないという格好の振りにもなりうるのだ。こうして笑いはかろうじて安全な位置、とばっちりを受けていないつかの間の僥倖を差し示すにすぎず、その意味ではだれもが対岸に立ちながら高見の見物を決めこむわけにはいかない。シーソーゲームの危うい均衡のなかで、笑いは一瞬の上昇の感覚を伴うが、追いかけ合う集団が行き着くのはマンホールの穴か舟が沈む水の底でしかない。伝統的なドタバタ喜劇が構成する世界の流動性は、笑いと怒りの極めて交通の激しい対極の感情によって生まれるのだ。一方、底抜けシリーズでルーザーを迎える社会は確固として動じない。『底抜け右向け! 左』(1950)では、舞台となった軍隊で荒らし回されるのは行軍でもなければ戦闘訓練でもなく、接触の悪い自動販売機だけであり、浮気な二枚目を演じたディーン・マーティンと間抜けなジェリー・ルイスの関係は終盤においても変わらない。軍隊の秩序の身分制度ディーン・マーティンを主軸にしたメロドラマの構成も、ルーザーが巻き起こす誤解や勘違いから崩壊へと至ることはない。ジェリー・ルイスが孤軍奮闘するのは いつでも決まって他人に成り代わる行為に限定されるのを見過ごしてはならない。ジェリー・ルイスがお決まりの失敗に打ちのめされるのは、一斉に嘲笑を浴びるからではなく、憮然とした無表情に遭遇するからである。失敗に脅え、いつでも大人の顔色をうかがう習い癖を抱えながら大きくなった人間にとって、無表情は決して慣れることのない脅迫となる。往々にしてそうであるように、取り繕う行為はかえって事態を悪化させるが、それは無表情に縛られた大人への無意識の反抗であって、それ以上ではない。彼の失敗はことごとく無表情に吸いこまれてしまうからだ。したがって、ジェリー・ルイスは確かに過剰だが、逸脱へと組織づけられることはない。ジェリー・ルイスは欲求を知るが、その実現方法を知らず、彼のすべきことはことごとく大人が知っている。失敗はあいかわらず彼の天性だが、夢や理想は教示と模倣の果てに見いだされるしかない。子どもが伸び縮みする体と閃光のようにほとばしる感覚運動的状況を次第にもてあますようになるのは、行進による直線的な集団行動や命令への従順さを示す直立姿勢、もしくは横移動撮影と同期する電気信号の可視化である点呼の場面においてであり、流動的なイメージを妨げるためらいやずれがリズムを遅滞させる主要な手段になる。従来のミュージカル(とりわけアクション・ダンスの系譜)が現実世界から夢幻的世界への移行にダンスを位置づけ、散歩がステップに変わり、熱狂がしかるべき伴奏のなかで浮き立ち、心理的な動機や社会的な問題意識が高揚する純粋な気分のうちに捨象されてゆくのに対して、ジェリー・ルイスのミュージカルパートは「すべてが彼の頭と魂の中で鳴り響いている」。舞台装置は、彼の内面的な混乱と、彼の上位に位置する大人の混乱との不協和が最大になったときに初めて物理的な一致をみるだろう。『底抜けいいカモ』の音楽教授の家は、生徒のジェリー・ルイスの物にならない狼狽と、叱責する教授の怒りが最大になったときに崩壊に至るのだが、屋根が崩れ、柱が折れ、壁が吹き飛ぶ惨状に恐れおののくのはジェリー・ルイスだけで、音楽教授はあくまでも平然としていられる。この場面がはからずも示しているのは、教育における反射の関係、つまり、教育者である大人の怒りに対する受け身の子どもからの正確な反映である。舞台装置の崩壊は、子どもの狼狽が生み出す幻覚の、大人の無分別ですらある怒りへ向けられた物質的な後づけとなるのだ。ここに見られるある種の転移は重要である。しばしば過剰さは「負け犬」の側にあるのでなく、周囲の彼を教育する社会の側に宿ることで、「負け犬」の陥る窮状はことごとく職業訓練的なモティーフを帯びるのだ。したがって、無垢な「負け犬」に対する周囲の人間は、子どもにとって大人がそうであるような「保護」的な性格をもつのは極めて当然の帰結といえる。「保護」の供給者の別種の形態、すなわちスラップスティックの喜劇に頻繁に出現する「略奪」的で「搾取」的な存在は、ジェリー・ルイスの世界においてはむしろ影を潜める。なぜなら、「略奪」や「搾取」に対して身を守るためのあらゆる奸知は、相手を出し抜くという一点において敵と同等の位置に立つからである。ジェリー・ルイスはことごとく失敗をやりすごすが、それは自分よりも明らかに強い相手に対する粉飾行為ではなく、一種の自己保全のバリエーションにすぎない。自己保全がようやく発覚するのは、しばしば幼児においては過ちが肉体的な成長によって自然と解消されるように、すでに失策の被害の所在がはっきりしなくなったあとでしかない。不安や安堵が現実に引き起こした損失を覆い隠してしまえば、ひとつの問題は感情の領分に沸き立つさざ波にすぎなくなるのだが、それが訓練である以上別のかたちで問題は再演される。その任意の瞬間に彼が見つけうる解法は、個別のものであって、一般的なものではない。したがって、ふたつ目のハードルを超える彼はときにぶざまであり、ときに何の障害も感じさせない軽やかさをまとう。ある面で問題は解決されるが、解決された問題は踏破されていない。このようにして、彼の無垢は彼のおりなす失敗とあまりに切り離せないために、かえって制度の生み出すイデオロギー作用、すなわち社会が制定した規則と個人の営為のあいだに生じる救いがたい溝を可視化してゆくという、すぐれてアメリカ的な主題が提示されることになる。規則は確かに偏在する、しかしどのようなかたちにおいてか。ある種の規則が人々の意識にのぼるのは、それがうまく運用されているときではなくて、失敗したときである。ひとつの失敗が示しうるのは、制度の不備ではなくて、個人の不備でしかない。不備の露見は、制度への順応をうながす不断の修正作業を強いる——教育される者だけでなく、教育する者へも。この明法が司るのは参加への意志なのだから、おのずと社会的不正や強制的執行とは異なる働きが見出されるだろう。なぜなら、制度から受けるのは、抑圧ではなく、教育であるからだ。そして、教育こそが真に抑圧的だという仮定には、不器用さをめぐるジェリー・ルイスアンビバレントな考察からは決して到達することができない。なぜなら、コメディの世界においては抑圧の契機が受苦の姿勢に顕現することはなく、誇張的でコミカルな演技によって相殺されてしまうからだ(わずかな例外がバスター・キートンジャン=ピエール・レオー、マーギット・カーステンゼンである)。こうしてジェリー・ルイスの映画の主題は、適応の問題にたいする誠実な当惑のドキュメントと、偶然だけが左右しうる魔法のような解決への郷愁とのあいだでみごとに引き裂かれるだろう。ぼろをまとった放浪者やどこにも所属していない与太者の神話的イメージと、現代のハイスクールの落ちこぼれの中間に位置する彼をもっともよく表すのは、やはりミュージカルの場面においてである。彼のダンスにすぐさま見て取ることができるのは、彼が手足をこう動かしたいと思っているイメージと、実際に動いている体とのいたって不均衡な衝突であり、ヴォードヴィリアンの美声とアヒル声の同居である。かつてマラルメは、ダンスを「書き手の道具からすべて解放された詩篇」と言い表したが、ジェリー・ルイスのダンスは「書き手の道具からすべて追い回された試練」と言えるかもしれない。いずれにしても、ジェリー・ルイスのダンスが示しうるもっとも単純な真理は、どのような規則であっても規則をどう適用するかについて含みうる指示をなんらもちえないという原則である。したがって、この世界においては、普遍的なものは常に個別的なものにあてはめられるだけでなく、個別的なものが普遍的なものに昇華されうるのだ。ジェリー・ルイスの戦いは、普遍的なものと個別的なものとの不一致によって開幕し、やがては個別的なものが普遍的になりうるかどうか、すなわち、自己から自己にたいして与えることのできる法則を見つけ出す可能性を探る段階へと移行していくが、この戦いに唯一終止符を打つことができるのは、現象的には愛する女性の口づけであり、物語世界の主人公と映画制作者であるジェリー・ルイスの同一化するにいたったエンドクレジットでしかない。