宙吊りの悪夢 タル・ベーラ『サタンタンゴ』(1991−1993)

 泥の平面の向こうに浮かんだ白壁の建物を正面から捉えたロングショットに不可解なものはなにひとつ存在しない。建物とカメラのあいだの二〇メートルほどの距離は、これから起こる事態をなんらさえぎることなく存在し、漆喰の白さと扉や窓の黒さを単調に際立たせる。そこではすべてが明白である。水溜まりは曇った空の色を反射することなく湿った大地にうがたれ、ときおり吹きこむ風は弱々しい。眼が馴れるでもなく確固とした不動性に包まれた白と黒の画面の中央から不意に均衡が破られるとき、最初に感じるのは過失に似た感情である。黒と白が揺らめき、またたく間に左右に広がると、ぴんと張った白い皮膚が奮いたち、うごめく黒ずんだ鼻面がけたたましい鳴き声を上げる。忽然と現れた数十頭の牛の群れが、画面を支配する。どこから現れたかは考えるまでもなく明らかなのに、いつからそこに存在していたのか見極めることができないまま雌にまたがる雄牛を目撃した瞬間の唖然とした印象を引きずるかのように、カメラがゆっくりとトラヴェリングを始めるとき、過失はごつごつした手触りのまま飲み下されるだろう。最初の唐突さにも関わらず、驚きはごく当たりまえに受け入れられる。なぜなら、それはまだ終わってはいないからだ。根を失った切れはしの記憶にたどりつくもどかしさは、思い出すという行為がつながる過去の地平に留まることを許さず、絶えず現在におびやかされる。群れは十分な距離があるかぎり見渡すことができるが、今現に見えている牛がすべてではなく、カメラの長方形の枠の外から彷徨い出した一頭の牛が顔をのぞかせる――すぐ近くで――その実在感は圧倒的で、群れと平行してトラヴェリングするカメラが漆喰の剥げた壁に視界を阻まれ、速度をじょじょに増すときですら、すきま風が音を立てる建造物の向こうの途切れることなき不器用な行進をかたときも忘れさせない。世界に動くものはふたつあり、カメラも牛の群れも別々の存在で、それぞれに自律した駆動原理に従っている。被写体を画面中央に据えるという映画に基本的な動作が暴力的にまで感じるのは、建物を境にした両者の移動が生み出す同期と同調が絶対的であるにも関わらず、現実世界の間延びした調子を依然として失っていないからである。タル・ベーラ監督の『サタンタンゴ』(1991―1993)の冒頭の長回しがはらむ予感は、いずれ語り出される物語の端緒にすらついていない。この発想が取り返しのつかない誤解であったと観念する間もなくわれわれは「出エジプト記」とドストエフスキーの『悪霊』の中間に宙吊りにされている自分に気づくことになるだろう。色褪せたレースのカーテン越しに外をうかがう男が今夜決行するはずの夜逃げの算段を翌朝にずらそうとする台詞のやり取りから、過失はふたつの状態の中間を浮遊し、過去は過ぎ去っておらず、先延ばしにしたい未来は猶予の感覚をともなうことになる。時間はふたつにひき裂かれ、汚れた札束だけが確固とした手触りを与えてくれる状況において、人々はもっとも絶望的な選択だけを歓待するかのようだ。金は彼らの逃走の口実であるとともに、彼らのような存在が不釣り合いな金を所持しているという事実が逃走中の身であることを証しだてるだろう(「どこへ行こうっていうの。最初の街で捕まるわ。名前さえ聞かれずにね」/「金はあるさ」/「その金が問題よ。浮浪者みたいな連中が鞄を抱えているなんて」という秀逸な台詞を参照)。選択を放棄し、破滅をじっと待つこと。救いがたい空虚さが過失を醸造してゆくなかで、一年半まえに死んだはずのふたり組の男が帰ってくるのを恐れとともに受け入れること。町外れの集団農場に寝起きする人々は、雨に塗りこめられた景色と際限のないアルコールの波に閉ざされるが、風景と人物がとり交わす関係は常に拡散的で、ひとときたりとも彼らの内面に縮小することがない(バーで酔客が語る「内蔵に降る雨」は、自然現象の擬人化ではなく、精神の希薄化が常態となった世界のもっとも的確な換喩表現となる)。状況が違った角度からくり返されるのは、ふたつの視覚的なイメージ、ふたつの行動、ふたつの思考、ふたつの感情が別種の意味合いをもつだけの識別可能な境界線を保持しているからではなく、光学的に計算された徒労の絶対的な退屈さを強調するためである。その意味で、タル・ベーラ監督の代名詞ともいえる長回しは、その途切れることのない継続性によって「行き当たりばったりに釣り上げられた」人生の再現に帰すこともなければ、見ている時間と「生きられた生」の古典的なリアリズム理論が提供する幸福な一致に帰すこともない。カメラが一定の速度で人物の周りを旋回するとき、包囲され狭い空間に隔離された彼らがなしうるのは死体とダンスを踊ることであり、もっと言えば死体の腕を放さないことである。農場を見渡すことができる家のなかで机の周囲一メートル以内で完全に自足した生活を送るアル中の医師が、登場人物の名前が冠された小さなノートに記録を取るとき、窓越しに書かれうる描写は観察した事実の羅列に留まらない。しばしば混濁した意識が語りの異常な精密さを補強するように(秋雨の「最初の一滴が大地に落ちたとき」という微細な視点の導入)、彼は安全な部外者であるばかりではなく、なによりも世界の事象を見通すことのできる語り手である。語り手と登場人物は壁一つ離れた同じ空間、同じ時間のうちに存在している。内的なモノローグの自閉性が間接話法の多様さに席を譲ることによって、人々は語り、見る人というよりも、どこからともなく語られ、見られる存在となる(この点はアル中の医師も変わらない)。こうして与えられた役割は、自己の不在を強調する。万年床の積み上げられた毛布――体を洗う水を張ったたらい――革張りの椅子に沈みこみ、四対一の比率で割られるウォッカで腫れぼったくなったまぶた――男たちの卑猥な手を経過した「悪魔の乳房」――といった、眼に見える経年変化の確かな兆候が彼らの肉体に取り返しのつかない生活の重力を与えはするものの、台本が生きられたあとに書かれることに変わりはない。主観的な観点は他者によって代行される。人間のもちうる内面は空虚にすぎず、そこに穿たれた穴だけがかろうじて自己を語るにすぎない。独白によるものであれ、正体不明のアウト・ボイスによるものであれ、覚めたばかりの夢を語ることが、夢のなかの行動を追跡していくことが、人間のなしうるもっとも意志的な表出となるだろう。物事にかりそめの終わりを見つけうるのは単に、物理的には一〇分と二〇秒しかつづかないコダック社製の三〇〇メートルのフィルムであり、トラヴェリングの果てに画面に映りこんだ一匹の蠅がもたらす偶然性の強度である。なすすべのなさが快感を与えるまでに無為に浸ること。スペクタクルやサスペンスがもたらす快感とは正反対のもの。宙吊りの覚めない悪夢。
 舞台が西部劇の停滞した酒場から集団移住によるメシア待望論へと唐突に移行するとき、待機と使命の中間に広がった奈落は、死から蘇ったとされるイルミアーシュの演説によってその開口部をさらに広げる。この映画では特徴的なことに、人々の来歴がいっさい説明されないのだが、それはイルミアーシュに関しても同様である。集団農場の人々がイルミアーシュの死になんらかの仕方で関わっていることが匂わされるだけで、配分方法が未定の手元にある札束も、それがどのような経緯で手に入れられたものなのかもはっきりしない。戸籍上存在しないふたり組に出頭を求めた警視が部下の提出した報告書を読む限り、死んだはずのふたりは「善良な市民」とはとても言いがたいが、イルミアーシュはこの警視の部屋でかわされた会話で、「善良な市民です。警視と同じ善良な市民です」と真顔で言い返す(もっとあとに警察機構における模範的な報告書作成の長い場面が挿入されることによって、認定された事実はことごとく疑わしくなる)。つまり、すべてが決定づけられた一年半まえの出来事も、イルミアーシュがどのような目的を持って帰還したのかも決して定かではないのだ。救世主を意味する名を持つイルミアーシュの不分明さは、もっぱら農場の人々の盲目的な信頼を深めるのに役に立つ。人々が蘇ったイルミアーシュの打って変わった明晰な頭脳に驚くのは恭順の意思を捧げたあとのことであり、彼らはその崇高な目論みに取りかかるイルミアーシュにもはや献身の情と使命感しか感じ取ることができない。人々はまさに自分が見たいと思っている人物のイメージをイルミアーシュに投影する。われわれは、イルミアーシュが最初に訪れたカフェで人々をこなごなに爆破したいという絶叫を聞いているし、実際に武器商人から爆弾を購入する交渉の場面を見てもいるのだが、彼が二枚舌のペテン師だと見積もることもできない。彼の性格と行動は、両義的というよりは端的に分裂しており、打算や策略という結び目すら持っていない。だから、人々の盲目的な信頼は、ある意味では正しい。なぜなら、彼は現にそう思われている自分を演じているからである。こうして『サタンタンゴ』では、われわれが創造された物語を読むときや劇を見るとき暗黙のうちに受け入れているさまざまな了解事項を可視化してゆく。それも、まったく逆の道筋を辿ることによって。台本において、性格はまず書かれたうえで演じられる。『サタンタンゴ』においては、人々の視線は書くことに対比され、そのような人物として望むことにおいて他者の性格の手触りを探る。あなたはそのようなあなただ。なぜなら、わたしはあなたをそのようなあなただと思って見ているから。この盲目的な信頼は、疑心暗鬼の直前までおのれをだますことに成功するだろう。書くことと演じること。見ることと演じること。行われるふたつの行為の主体は別である。『サタンタンゴ』においてはしばしば公平な判断が第三者であることに求められるように、人間の社会性の核には分担というコミュニケーションの必然性が基礎づけられているのだが、ここから生じる間主観的な相互了解というきわめて人間的な営為の非人間性をもっとも端的に示しているのは、おそらくは警視の部屋の壁に飾られた一枚の写真である。この写真は警視の机の左後方にあり、遠近法による構図が意図されており、後景に机に座るひとりの男の顔が正面から映し出され、前景に男の顔を挟むように二本の巨大な手が見える(もっとも、左ははっきり腕とわかるが陰っている右はそうではないかもしれず、また、二本の腕だとしてもそれらが同一人物のものかどうかはわからない)。この不鮮明な写真から判断できる構図がいみじくも表しているのは、腕と頭脳の分離という事態であり、見ることとすることの乖離である。文字通り、視線は肉体に穴を開ける。空洞を抱えた人間にできることは、空洞を埋めてくれる視線を探すか、同じ空洞を抱えた存在に憩うことでしかない。したがって、猫いらずを飲ませて殺した猫を抱いた少女が初めて安息の眠りに浸れるように、ダンスで相手とステップを合わせる同化の欲望は、相手が生きているかどうかに関係しない。猫いらずが少女の口に含まれるとき、死の苦しみよりも死の静けさが彼女を支配し、眼を閉じた顔は静謐さを崩さない。それはもっとも甘美な待機の瞬間であり、終盤の、崩壊した教会の鐘を力の限り叩き、かつての支配者に対する幻視的で時代錯誤な警告とともに「トルコ人が来たぞ」と連呼する狂人の騒々しさと通じる。見通しのよい四つ辻にトルコ人はついに現れず、鐘の音が止むように、死は音もなく忍び寄るだろう。だろうという言辞が持つ仮定の響きをまったく失わないままに。