喜劇の上昇運動 『ロイドの要心無用』(1923)

 『ロイドの要心無用』(1923)の上映時間は六七分だが、体感としては『キートン将軍』(1926)の二倍ほどに感じられる。後者はいくつかのヴァージョンがあるとはいえその上映時間がおおむね七五分から一〇三分であることを考えれば、この印象は考察するに値する。しかし、結論はすぐに見つかるだろう。実際よりも長く感じるという印象のいくらかは、ギャグの連鎖に関して段階的発展や音楽的高揚感よりも次々に湧きでるアイディアをつなげることを優先したこと、いくつかのギャグがチャップリンの短編映画からのいただきであること、また字幕の使用が単に次に行うギャグの説明になっていること、などというある種の生真面目さから説明がつくだろうが、ハロルド・ロイド自身が含まれる「三大喜劇俳優」のなかでもチャップリンキートンとのもっとも顕著な違いが、その印象の誘因になっていることは否めない。それは、ロイドの文学的といっていい繊細な資質である。実際、彼のみせるギャグはそれ自体として途方もないものにみえても因果的な論証が可能であり、ギャグの連鎖は文学的な象徴関係の確かな統合のもとに組織される。このような観点から見たとき、多くのスラップスティック・コメディが交通機関の直進する平面的・水平的な移動を軸にしていたのに比べて、ロイドの映画には上下の運動が確固として見いだされることに気づくであろう。前者が追いかけっこのなかで階級や身分の違いをしだいになくし、最後には走りつづける肉体や交通機関の勢いの果てに崩壊していく機械的なリズムに還元されるのに対して、ロイドの映画では追いかけっこがよじ登るという動作のなかで演じられることによって、空間的な高さが世俗的な上昇志向や恋愛の成就に対応していくことになる。あの映画史上に燦然と輝く十二階建てのビルのロッククライミングシーンがなぜ生まれたのかも、この点から理解することができるだろう。
 冒頭の、絞首刑のイリュージョンのもとにはじまる都会への旅立ちは、都市で待ち受ける彼の就職の困難を表している。デパートにおける彼の職場ではスタッブスという上司がいて、彼の性格はわずかニカットで簡潔に示される。上客には慇懃にごまをすり、貧乏人には冷淡に接するという性格がそれで、こうした典型的な俗物は、チャップリンキートンの映画には不思議と見られず、マルクス兄弟の映画のなかでも似た人物は滅多に見られない。そしてなによりも、彼はロイドから最終的に(無意識にも)排撃される存在にはならないのだ。ロイドは貧しく権限のない売り子で、とにかくスタッブスは直属の上司であることは、映画のなかでは最後まで否定されない設定である(したがって、ロイドの映画にはアナ―キックな魅力はなく、卓越した身体能力よりも偶然がむきだしにする悪意に翻弄されながらもしぶとく算段して事態をのり切るという意味で、その風貌にも関わらず、極めて人情的で叙情的な存在を作りだしている。初歩的な文学的発想が世間知に取ってかえられ、ロイドは市民社会に擬態化していく)。ロイドには、田舎に残してきた美しい恋人がいて、手紙だけがおたがいの近況を伝えあう境遇では、ありのままを伝えることは野暮だということを知るくらいには都会の生活になじんでいる。大言壮語を書きつらねるロイドは、やがて彼の嘘八百につられて田舎から彼のもとに舞いこんできた恋人のまえで専務職を演じるはめになる。身分を偽る行為は、チャップリンにも頻繁に見られ、その日暮しの乞食がヨーロッパの貴族を演じることなど朝飯前だが、チャップリンの映画においては、つくろった嘘はすぐにばれても問題はない。なぜなら、嘘とはそのようにすぐ足がつくものであり、もし見こみがあるならその後に人間同士の、より真実に近い関係にとってかわるだけだからである。しかし、ロイドの映画では、まさに「体裁をつくろう」という行為が真に重要になる。この重要さは、恋人の前で強がるという愛すべき行為がスタッブスの接客上のゴマスリと同一視されるにいたるという、危険な演出にも現れている。したがって、ロイドが田舎をとび出した恋人とうまくいくためには嘘でついた「体裁」を実現させることが必要であり、そこから都合のいい出世と資金稼ぎを目的にしたビルをよじ登るという行為が出てくるのだ。「体裁をつくろう」ためには、まず自分がなにをしたいのかがはっきりわかっていなければならないばかりか、それを可能にする方法を知っていなければならない。自分の欲望に社会性をもたらす堅実的なものの見方が、スラップスティック全盛の喜劇時代にいかに稀なものだったかは、いくら強調してもしたりないだろう。ビルをよじ登るというシンプルなアイディアは、たとえ十二階の各所に配置するギャグが思い浮かんだとしても、チャップリンキートンをしり込みさせたと思う。それでもやれといわれたら、チャップリンなら最後の六階をいっきに登る方法を考えただろうし、キートンなら登る途中でビルを倒壊させただろうが、しかしそれも実現されずに終わるアイディアに留まったに違いない。ロイドの偉大さは、実にこの単調さを受け入れたことであり、私は各階でロイドがどんなギャグを用意したか、今でも眼をつぶってすべて思い返すことができる。体裁をつくろうという口実が、どれだけ人間を向こう見ずにさせるか。このロイドの前提にあるいたって打算的で小市民的な感覚は、笑いとともに、いつまでも深みを増すことのないうすっぺらな哀しみを、見るもののゆるんだ頬のあたりに残すことだろう。そして、映画館をあとにしたとき余韻としてまぶたの裏に浮ぶのは、あの最も有名なビルの大時計の針に必死でしがみつくロイドの宙にぶらさがる姿ではなくて、恋人に贈る首飾りのチェーンのために犠牲にした、五十セントのビジネスランチのイメージショットであることに気づくのだ。それはイメージショットなのに、お皿に盛られたハムの上に一匹の蝿がせわしなく歩き回っていた。追い払おうと思えば追い払えただろうし、撮り直そうと思えば撮り直せただろうその一瞬の現実の介入を、ロイドは見て見ぬふりをして許してしまったのではないか、と勘ぐってもみたくなるのだ。ロイドはいたって小市民的な感覚で、イメージショットの編集でちらつく蝿を見ながら無菌衛生的な食べ物などこの世に存在しないということを、いつまでも体裁を必要とするその現実のなかで確信していたはずだ。だから、ロイドの映画で腹を抱えて笑えるのは、しばしば彼のくりだすギャグではなく、正常な生活を営む人間たちがロイドの打算や奸計に振り回されるときに見せる、ありえない状況を真に受けてしまったあの表情なのである。