(その五十九)空襲警報

 四月十八日、土曜日。
 授業は終ったが、すぐに家に帰る気にはならない。ランドセルを放り出して、校庭の隅のジャングルジムに登った。隅田川を上下する舟がよく見えた。
 大川の向うで、間の抜けたサイレンが鳴った。本所あたりの工場の昼休みだろう。何かの訓練か、やたらにサイレンが多い。
 が、無視していいものかとも思い、ジャングルジムの上の私たちは顔を見合わせた。ぱん、ぱん、と気の抜けた音がしても、なんだかわからなかった。
「高射砲が鳴っているのがわからんのか! 本物の空襲だ。すぐに家に帰れ!」
 用務員がメガフォンで怒鳴った。あわてて飛びおり、ランドセルを片手でつかんで、家に逃げ帰った。
 店に着いたものの、だれもあわてていない。空襲なのかどうかも不明である。やがて、空襲警報、警戒警報、ともに解除になった。
 その夜、眠っていると、母にゆり起された。何がおこったのかわからぬまま、二階の押入れに入れられた。弟もいたと思う。なぜ地下室へ行かず、二階にいるのかが理解できない。ゴムの不愉快な匂いのする防毒マスクをかぶせられた。
 サイレンが鳴り響いた。爆風で鼓膜が破れるのを防ぐため、耳に脱脂綿をつめる。とうとう来たか、と私は思った。
 どのくらい経ったか覚えていない。記録によれば、午前四時ごろ警報解除になったようである。
 被害や死者の詳細が発表されなかったため、〈帝都初空襲〉の緊張感はほとんどなかった。牛込区で子供が殺されたという噂があったが、すぐに消された。米機は大したことはない、と私たちは思った。真珠湾攻撃の四ヵ月後の報復とは気づかずに。


小林信彦日本橋バビロン』文藝春秋社 二〇〇七年九月一五日発行 一六〇〜一六二頁