(その五十三)情状酌量

 百姓は女房をなぐる。長年の間には片輪になってしまう。犬を扱うより、もっとひどく罵詈嘲弄をほしいままにするのである。女は絶望のあまり、自殺を決心して、ほとんど狂気のていで村の裁判所に訴えて出る。すると、そこの連中は「仲よく暮らすがいいよ」と、気のない調子で口の中でむにゃむにゃいって、女を帰してしまう。これがはたして憐憫であろうか? これはまるで、悪酔いからさめたばかりの酔いどれの間抜けじみた言葉と同じではないか。酔いどれは、人が自分の前に立っているのもろくに見分けがつかず、邪魔されまいと思って、やたら無性に手を振りまわし、呂律もまわらず、頭の中がもうろうとして、無分別な有様でいるのだ。
 とにかく、この女の事件は有名な話で、ごく最近の出来事なのである。それは、あらゆる新聞紙上に掲載されたから、あるいはまだおぼえている人があるかもしれない。簡単にいえば、女房は亭主の殴打に耐えかねて、縊死したのである。夫は裁判にかけられて、情状酌量の余地があるとされた。しかし、わたしの頭にはなお長い間、いっさいの状態が思い浮かんだものである。今でもやはり浮かんでくる……。
 わたしはしじゅう、心の中に彼の姿を描いてみた。背が高くて、肉づきのいい体格で、力が強く、髪の色は白っぽいということである。わたしはさらにそれへ、薄い髪の毛をしていた、とつけ加えたい。体は白くぼってりしていて、動作はのろのろしていてもったいらしいし、まなざしは一つところに集中している。口数は少なくまれで、まるで高価なビーズ玉のように、ぽつりぽつり言葉を洩らし、当人もそれを何より貴重なもののように考えている。証人たちは、彼が残忍性のある人間であると申し立てた。鶏を捕まえては、ただ慰みのために足を縛り、頭を逆さに吊すようなことをする。これが彼には面白かったのだ。なんと素晴らしい性格的な特徴ではないか! 彼はこの数年というもの、縄や棒や、手あたり次第のもので妻を打ったのである。床板を引っぺがして、その破れ目へ彼女の両脚を押し込み、上から床板をはめて、なぐってなぐって、なぐりぬくのである。思うに、彼はいったいなんのために女房をなぐるのか、自分でも知らなかったであろう。それは鶏を吊るしたのと同じ動機に違いない。飢え死にさせるような目にもあわせて、三日も女房にパンをやらなかったこともある。棚の上にパンをのせ、女房を呼び寄せていうのである。「パンにさわってはならんぞ、それはおれのパンだから」――これもやはり非常に性格的な特徴ではないか! 女は九歳の子供をつれて、近所へ物乞いに行き、わずかなパンをもらえば二人でそれを食べ、もらえなければ、すき腹をかかえてすわっていた。亭主は彼女に次々と仕事をいいつけた。すると、彼女は口返事もせず、びくびくしながら、せっせと命のままに働いていたが、とうとう気ちがいのようになってしまった。わたしは彼女の姿をも想像に描いてみる。きっと非常に小柄な、木っぱのようにやせた女に違いない。色の白い、ぼってりした体つきの、うんと大きな、強壮な男というものは、どうかすると、非常に小さな女と結婚するものである(わたしの観察したところでは、彼らはわざわざそんな女を選ぶ傾向があるらしい)。こういう夫婦がいっしょに立っていたり、歩いているのを見ると、実に奇妙な感じがする。もしも彼女が死ぬ間ぎわに、男の胤を宿していたとすれば、それはこの場合の情況を十分悲惨なものとするために、いっそう性格的な欠くべからざる特徴ができるわけである。でなければ、何かものたりないような気がするくらいである。諸君は、百姓が女房を折檻するところを、見られたことがあるだろうか? わたしは見たことがある。まず縄か革帯でなぐりはじめる。百姓の生活には芸術的な娯楽、――音楽とか、芝居とか、雑誌とかいうものが欠けているので、したがって、自然それを何かで補わなければならぬ。女房を縛り上げるか、ないしは床板の破れ目にその両脚を挟み込んで、わが百姓は必ずや規則正しく、冷然として、おまけに眠そうな様子さえして、調子正しく打ち下ろしながら、女房の叫び声や嘆願には耳もかさずに打ちはじめる。いや、実はそれを聞いているのだ。快感を覚えながら聞いているのだ。さもなければ、ただなぐっただけでは何も面白いはずがないではないか? 諸君、ごぞんじのとおり、人間というものは、おのおの異なった境遇に生まれるのである。この女がもし別な境遇の下に生まれていたなら、シェイクスピアのジュリアとか、ビアトリスとか、ファウストの中のグレーチヒェンになり得たかもしれない、それを諸君は信じられないだろうか? 彼女がそうなったとは、わたしもいわないつもりだ、――そんあことを主張するのは滑稽このうえないことだろう。――しかし、あるいは彼女の内部には、高貴な社会の人々劣らないほど気高いあるものが、胚種の状態で宿っているということもあり得る。彼女がかほどまでに自殺をためらっていたということだけでも、いかにも静かな、辛抱づよい、愛に溢れた光明を彼女に投げかけるではないか! このビアトリスかないしグレーチヒェンが、犬猫のように打たれ、打たれるのである。鞭はますますしげく、鋭く、数知れず振り下ろされる。彼は次第に夢中になってきて、それを楽しみに感じだす。やがて、彼はもうすっかり獣のようになり、それをわれながら満足な気持ちで自覚するのである。苦しめる女の動物めいた叫喚の声は、まるで、酒のように彼を酔わす。
「お前さんの足を洗って、その水でも飲みますから」とビアトリスは、人間とも思われぬような声で叫んでいるが、しまいにはだんだん静かになって、叫び声もとだえ、ただ異様な呻きを立てるばかり、息も次第に切れ切れになる。が、鞭はこの時とばかりさらに繁く手痛く降って来る。百姓はとつぜん革帯を投げ捨てて、痴気にでもなったように、手あたり次第の棍棒か枝を引っつかみ、これを最後と三度ばかり、彼女の背中をむごたらしくなぐりつけて、棒を折ってしまう。――これでおしまいだ! と、そこを離れ、テーブルに向かって腰を下ろし、ひと息ついて、クワスを飲みにかかる。年はもゆかぬ彼らの娘は(彼らにも娘があったのだ!)隅っこのペチカの上でふるえながら、身をひそめている。彼女は母の叫び声を聞いていたのだ。百姓は出て行く。明け方に、母は正気に返って、起きあがり、身を動かすたびに叫んだり呻いたりしながら、牛の乳を搾りに出かけたり、水汲みや野良仕事のために足を曳きずって行くのである。
 ところが、彼は出て行く時に、持ちまえの律動的なゆったりしたもったいらしい声で、「このパンを食っちゃならんぞ、それはおれのパンだからな」といったものである。
 しまいには、彼は女房まで鶏と同じように、逆さ吊りにしてから、わきへのいて腰を下ろし、粥を食いにかかるにちがいない。食い終わると、とつぜんまたもや革帯を引っつかんで、始めるのだ……吊るされた女房を打ち始めるのだ……娘はペチカの上に丸まりながら、相変わらずぶるぶるふるえて、逆さに吊された母のほうを、けうとい目つきで盗み見しては、また身をひそめるのである……
 彼女は、五月のある朝、首を縊ったのだ。それはきっと春めかしい日だったに相違ない。前の晩、彼女が打ちのめされて、まったく人事不省に陥っていたのを見た人がある。また彼女は死ぬ前に、郷裁判所へ出かけたのだが、つまり、そこで「仲よく暮らすがいい」と、口の中でむにゃむにゃいい聞かされたわけである。
 彼女が首を縊って、しゃがれ声を出し始めた時に、娘は片隅から、「おっ母ちゃん、なんだって息つまらしてんの?」と叫んだのである。それからおずおずと近寄って、ぶら下がった母に声をかけ、けうとい目つきでその姿を眺めた。父親が帰って来るまでというものは、朝の間じゅう幾度か、母を視るために隅から出て来たものである。
 こうして、彼はじっと一つに集中したようなふうで、ぼってりしたものものしげな体を法廷に現わしたのである。何事も知らぬ存ぜぬの一点ばりで、「わっしどもは一心同体に暮らしておりましたので」と、彼は高価なビーズ玉かなんぞのように、ほんのたまに言葉を洩らすのみである。陪審員たちは、別室に退いて、「しばしの会議」の後に判決を下す。――
「有罪と認むれど、情状酌量せられるべきものと信ず」
 ここで注意すべきは、娘が父に不利の申し立てをしたことである。彼女はいっさいを物語って、列席者の涙をしぼったとのことである。もし陪審員たちの「情状酌量」がなかったなら、おそらくシベリアへ流刑に処せられたことだろう。しかし、「情状酌量」のおかげで、彼は僅々八ヵ月の禁固を宣告されたきりである。だから、やがて帰って来ると、母に味方して父に反証をした娘を、手もとによこせというに違いない。また逆さ吊りする人間ができるわけである。
情状酌量の余地あり!」しかも、この判決は、みすみす承知のうえで下されたのである。実際、陪審員たちは、どんな運命が娘を待ち受けているか承知していたのだ。いったいだれのため? なんのための情状酌量なのだろう? まるで、なにか旋風にでも巻かれているような気がする。みんな旋風に引っつかまえられて。ぐるぐる引きまわされているのだ。


ヒョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『作家の日記』米川正夫訳 河出書房新社ドストエフスキー全集第一四巻 昭和四五年六月二〇日発行 二三〜二六頁


 ドストエフスキーは、記憶の回想と情景の再現をまったく別のものと区別している。たとえば、「記憶の鈍いのにもかかわらず、素晴らしくはっきりと、ひとりでに浮かんでくるのである」(28頁)などと。この区別にあるのは、意志的なものとそうでないもののちがいである。情景はおのずから再現される。記憶は整理され、いつでもとり出すことができるが、文字が剥がれ落ちるようにしだいに劣化していく。記憶は部分でしかないが、情景はすでにつねに全体である。それは「すばらしくはっきりと」再現される。ときには現実以上にすばらしくはっきりと。なぜならば、情景は過去の出来事であるにもかかわらず、新たに作り出すことができるからだ。