ふたりの映画作家の対話

 若い、といっても中堅といっていい年頃の映画作家が自作について語る。
「今回のテーマはファム・ファタールでした。運命の女とはなにか。女はふたりの男のあいだで引き裂かれます。過去に振り切ったはずの男と、未来を託してもいいと一瞬でも思った男。演出においては、私の意図をどのように再現できるかをいつも考えます」
「そのように考えるのは、君のほほえましい欠点だ。」長年アイドル映画を手がけてきた老年の監督は、ぴったりと膝を閉じたまま、肩を縮めてしゃべりはじめる。
「演出とは、監督の意図というよりは、そうさせたいしぐさなんだ」と白髪の老監督はいった。「君はファム・ファタールものを撮りたいといった。私が運命の女を撮るとしたら、女優に求めるのは気取りだね。人は、運命の女の美しさではなく、その高慢さに惚れる。高慢というのは、欠点には違いない。ときには鼻持ちならない態度であろうが、それが魅力に映る。私が出発するのは、そういうしぐさを発見することなんだ。たとえば、君は主演の方のタバコの吸い方をどのように演出しましたか?」
「現場では、スケジュールどおりに撮影がすすまないことや、外の騒音に気が散ってそれどころではありませんでした」
「私がほほえましい欠点といったのはそういうことだ。君はいくらか自分自身の問題にかかわりすぎているわけだ。主演の女優のタバコの吸い方に戻ろう」老監督は指を二本立てて再現する。
「あの主演の方のタバコの吸い方というのは、タバコを指の中腹ではさんでいるんだけど、われわれの考えでは、あれは土方の吸い方なんだ。ふつうは、ジャンヌ・モローでもなんでも、タバコは指先で転がすようにもつものだ(シャーリー・マクレーンなら違う吸い方をするかもしれないが、それだとジャンルが変わってしまうわけだ)」
「その点はまったく気づきませんでした。あなたは深いところまで観ている」
「いや、問題はその深さなんだ。私は君のように深刻な問題で悩むことはない。君の方がずっと映画について考えているし、悩んでいる。私が監督をしていたのは幸福なことに映画産業がまだ青色吐息を吐き出しきる以前の時代で、君のように予算やスケジュールで心配することはなかった。もちろん潤沢とまではいえないけれど、現代と比較するとそうだろう。君の悩みは私にはわからない種類のものだろう。君が抱える問題はたくさんあり、かんじんの主題もそのなかにあるらしい。でも、私からみると、君はあまりに深いところで悩んでいるように思える。主題を探ろうとするあまり、考えこんでしまう。悩むことを愛しすぎるくらい悩むのは、あまりいいことには思えない。君に必要なのは、もっと手前で悩むことなんだ。まわりのだれかが君の悩みがわかるくらい、少なくとも、君の悩む姿が共感を呼ぶくらい手前でね」
 若い監督は、素直さに欠け、険のある目つきになる。説教を求めながら、同時にそれを寄せつけない雰囲気。理解しながら理解したものに飽き足らず、その理解を実現する方法の独自さに唯一の希望を見出すような若さが膝のうえで握られた拳に宿る。
「私はきみが書いたシナリオを読むことで理解できたことがひとつある。それは、君のロングショットがとてもすばらしいことだ。そこには映画史的な目配せもある。たとえば、君のヒロインたちはせっぱ詰ったときに水辺にたどり着く。これは、溝口健二の映画でもよく観られる光景だ。過去と未来の交差を階段を使った演出で見せるアイディアも悪くない。しかし、君の映画では心理が見えないんだ。遠くにあるものはよく見える。しかし、近くのものが見えにくい」
「それは、私の主題に関係しているのですか」
「君のもっている真剣さは稀有のものだ。この世界で生きているもののだれもがもっているものあっても、そう簡単にもちつづけられるものではない。だからこそ私は苦言を呈したい。君は真剣さをいくらかはき違えている。君は意図や主題によって現場を、ひいては映画を制圧しようとすることで、大切なものが生まれる土壌を掘り崩してしまう。その場合、制圧されるのは現場ではなくて、君自身なのだ。その方法でうまくいく場合もあるかもしれない。批評家から出発した監督たちが連帯感を示すのは、彼らが深めた主題や意図であってみれば、君には君のやり方があるはずだし、私の方法や理解がすべてではないことを前提にしたうえで、この話を聞いてほしい。だからくり返すが、これは私自身の考えだ。私にとって重要なのは、私が主題と闘うことではなくて、役者が主題と闘うことができるかどうかなんだ。君の映画には君が追い求める対象がある。それははっきり感じられる。だが、登場人物が追い求める対象は感じられない。ふたりの男女が喫茶店に入ったとたん、それまでのシーンにはなかった雨や傘さす人々が窓から見えたからといって、かぎられた予算や短い撮影日数がその原因では必ずしもない。君は君自身が与えられた条件でしか撮影にのぞむことができないし、それはこの先もずっと変わることはないだろう。だが、それらの条件が現に不足にしか感じられないとしたら、やはりなにかが足りないんだ。たとえば、俳優たちは、あまりに身の丈にあった演技をしすぎている。彼らは、彼らが追いこまれた状況をあまりに自然に受け入れすぎている。そのためにかえって、彼らの演技は響かないのだ。私がひととおりの演技指導しか受けていないアイドルたちで撮った映画の制作をつうじて知りえた真理のひとつは、役になりきる必要はなく、むしろ、われわれが演技にいくぶんの真実らしさを感じるのは、役をそのまま演じる行為ではなく、役になろうとする姿勢なんだ。私がスクリーン慣れしていないアイドルたちに信頼するのは、彼女たちのひたむきさに無上の価値を置いているからなんだ。(君はぴんとこないかもしれないが)この考えは今後も変わらないだろう。君は演出を考えるとき、監督である自分はすでに知っているが、役者には知りえないなにかを想像して、説明するにも口ごもってしまう。私はというと、口ごもる必要はない。なぜなら、私にはいうべきことがなく、そうした使命を抱えているのは監督ではなくて、役者だからなんだ。それに、ことばはすでに書かれてある……。もちろん、先にいったとおり、君には君の方法がある、闘う姿勢は最後まで崩れていない。このさき君はなにかを発見するだろう。むろん、君自身の主題を。それでも君は君しかいっしょに探す相手がいない。君が君自身と仲違いしたらおしまいだ。そのことにもっと気を配るべきなんだ。君が悩んでいることは、君の悩みでしかない。そして、それがすべてだとしたら、映画はデッドエンドに放りこまれるわけだ。私のスタンスはあくまでも逆だ。役者は明らかに私にはないものをもっている。それを見つけるのが私の仕事だ。そのようにして私は30年のあいだ映画を撮りつづけてきたのだ」