(その一) 白樺派の時代

 『白樺』の標榜する人道主義は安易な虚言でしかなかったが、それは局外者の冷静な観察によってもたらされた意見である。素朴な宗教的感情のように、理想は実現の可能性を本気で信じたときだけその深淵の口をぱっくりと開けた。自己主張を敬虔と熱狂という宗教的イメージとして捉えた明治後期から大正にかけての画家たちのメンタリティーは、放棄と執着のおよそ不可解な混淆を生み出したが、文字通り彼らは信じた。結果として行きつくのが自己であれ神であれ、実在の不確かなものは、まず信じなければならなかった。疑うことはありえなかった。なぜなら、前提としてそれが存在するという保証は、彼らが接木した伝統のうえにはそもそもなかったからだ。そのような形で磨き上げられた彼らの実在感は、ひとえに信仰の強度によってのみ存在を約束されるという意味では、あこがれと同じように根も葉もないあだ花に過ぎなかった。自らを辟易させるほどの気負いこそが真実の影であり、思い込みは理不尽なだけにかえって打ち消しがたいものになった。前のめりになったのは歩く姿勢だけではなかった。彼らは好んでカンヴァスに立ち現れる内面の発露を語ったが、それは熱を帯びた暗渠であり、かけた声音とまったく同じ響きを返した。彼らの声が大きく、力強くなるのは、生来の自信からではなく、穴蔵から放たれた返事が大きく、力強く聞こえてきたからだった。不安を覆い隠すように声は張りを帯びた――もっぱら演じているという自覚もないままに――最後には不安を覚えたかつての自分を忘れた。覚醒こそが芸術家としての自覚のもっとも的確な表現だったので、生まれ変わりはしょっちゅう起こった。より所にすべき主義主張は、数年はおろか数ヶ月単位で劇的に変わった。ときには一夜のうちに方向を変えることも辞さない彼らの精神構造は、見よう見まねで土台のはっきりしない更地のうえに堅牢な建物を築き上げるにいたった。
一九二三年に起こった関東大震災は、その傾向をいっそう助長させたに過ぎない。人々は長い期間をかけてゆっくりと破壊と再建をくり返す余裕もなく、迫りくる文明の荒波にじかにさらされた。未曾有の惨劇とその後の気の遠くなるような復興という一大行事は、日本という国土に奇妙な調和を生み出すことに成功し、過剰さや地に足のつかない無理体を氾濫させると同時に、分別や折り目正しい節度を守る律儀さを遵守させた。ようやく板についた写実主義は、渡来の新奇な言語を駆使する抽象的な理論に席を譲った。勇ましい急進主義は世界の変革が起こることなど望んでいなかったことがはっきりし、保守主義者はあいかわらず保守的なままだった。素材そのものの持つはかなさは、稀少性から単なる耐久性のなさになった。日本人には馴染みのない美意識の啓蒙を説き、至上の価値を担う芸術品を鑑賞する態度を熱心に触れ回った同じ口が、視線の優位よりも機能性を説き、実生活に根ざした有機的な社会の一要素として芸術を位置づけたかと思うと、それでも飽き足らずについには芸術を否定し追放するにいたった。大衆の存在は、文化の普及を訴えるにわか知識人たちに知の所有と譲渡という大義を義務づけたが、諭されたかと思うとあっけなく突き放された。そうかと思うと代弁者の言いなりになっていたはずの群集が果敢にデモ行進を組み、プラカードには奇抜な警句や権力に対する戯言が踊った。美は持ち上げられた末に唾を吐きかけられた。アトリエに籠もってくる日もくる日もカンヴァスを睨んでいた者が、とつぜん街に出てポスターや看板の制作に没頭した。富豪が舌なめずりする嗜好品とどこでも眼につく街灯や趣向を凝らしたマッチ箱が等価になった。どこもかしこも地盤沈下が起こり、短い期間で芸術上の価値観は完全に転覆した。あまりにも多くの事柄が、急激に変わってしまった。声高な宣言が乱発され、グループは離合集散をくり返した。アクションやマヴォがその宣言のなかで舌足らずで宙に浮いた大言壮語を書きつらねたように、決定的にまとまりを欠き、主要な目的を共有せずに組織されたということでは人後に落ちない烏合の衆でしかなかった未来派美術協会や第一作家同盟が矢継ぎ早に結成された。個々の賛同者の傾向の違いは考慮になく、重要なのは遅れをとってはいけないということだった。思想的な変遷が跡づけられる熟慮よりも、時代の速度に反応する勘の良さが求められた。表は裏返され、新しいものはすぐに古くなった。骨董品に新味が発見され、新知識は代わり映えがしなかった。先回りすることが美徳とされ、わすかに展望はゲラ版刷りの文末の予言的な調子にのみ宿った。この見通しが悪く急速に遠ざかっていく世界では、慎重な推測よりも性急な断定が重宝されたのは当然のことであった。風速に逆らうことなど論外だった。ただ眼のまえにあるものが信用のおけるすべてだった。高度計も方位磁石も役には立たなかった。この狂った気流のなかでは、選ばれたものが身につけることのできる直観だけが方向を定めてくれるという。またしてもそれは信仰だったが、膝をつく相手は違っていた。こうべを垂れる彼らはもう独りではなかったのだ。
そのようにして彼ら大正期の画家たちは、時代精神や生活感情といった、彼らの暗くちっぽけな内面よりも大きくはっきりしているものにすすんで身をゆだねていった。同調は期せずして訪れた。多様性はたったひとつの規則に収束した。あべこべな調子を正当化する理由にこと欠くことはなかった。時代に適応するものには留保なしによいものだとする評価が下されたので、よいことはするべきだと信じて疑わない薄弱な精神の持ち主にとっては、行為に即して統制する基準は遠慮なく改変されてしかるべきであった。公共の利益は隣の庭の芝生の評価に帰せられ、日常的な問題解決がかしましく論じられるのは、口にした当人を通り越してその他大勢の罪深く改善が求められる人々の頭上においてだった。そんな彼らの玉虫色の言辞の裏には、驚くほど鷹揚さに欠ける思慮が隠されていた。普遍性の主張は排外主義者の十八番で、口にされるまえにさまざまなものが暗黙のうちに排除されていた。いつとはなしに、押しつけるでもなくそうした詐欺まがいの観念論を当たり前に広める土壌ができあがっていたことに気づくものはほとんどいなかった。デモクラシーを旗印に、シュプレヒコールが舞い上がり、だれもが傍観者ではいられない浮遊感に包まれて、自由を讃美する時代は熱狂的に迎合されたのだから。
この慌しく浮き足立った時代でただひとつ確かなのは、巻きこまれるよりも進んで身をゆだねた画家たちがかたくななまでに純粋で、恐がりだということだった。責任感がないわけではなかったが、主張の放棄が多すぎた。総じて彼らは無知で、人当たりがよかった。悪気はなかったが、かえって始末に終えなかった。若さだけが尊ばれた結果、歳の取り方が忘れられた。制作のあとの甘美な高揚感に包まれて、世界を手中に転がす万能感に浸っていたときも、展覧会に出品した作品が軒並み黙殺され、数少ない褒め言葉すら誤解に基づくことに気づいたときも、等しく変わらなかったものがある。それは芸術を信奉する彼らの誠実さである。時代は大きく変わったが、彼らの美しく汚れを知らない誠実さは無傷のままだった。