観察の技法 小川紳介『ニッポン国古屋敷村』(1982)

 観察が行われる。撮影のまえに、ただなかに、あとに。時制が異なるだけで、観察の方法も違えば対象も違う。だから、目を見開き、耳を澄まさなければならない。よりよく観察するためには、生活を変えるだけでなく、ものごとの見方から変えなければならない。状況が都合をつけてくれる。撮影隊は田地を手に入れ、生活をはじめる。移動がなされ、生活は重力を持つ。撮影のまえでは、ゆっくり歩くことだ、という。二四メートル×一〇〇メートルの田んぼを、二年間かけて歩くことだ、と。実行してみると、その歩みは二年ではなく、四年もかかってしまう。それでも撮影にかけた準備は正確に反映される。準備したことしか映し出すことができない。だから、撮影の最中に示される顕微鏡や模型や図版は、観察対象を縮尺したり拡大したりできるのだが、忘れてならないのは、現実がただそこにあるわけではないことと同じくらいの確かさで、実験器具自体が最初から存在するわけではないということだ。専門家の意見を聞き、部品が取り寄せられる。さっそく組み立てが始まる。出来上がった顕微鏡は、驚くことにコッホの時代の古めかしい遺品とそっくりだった。しかし、それが一番手に馴染んで使いやすい。籾殻が採集され、プレパラートに貼りつけられるが、正確に細胞が観察されるまでになんども試行錯誤がなされる。より多くの事象を目にしたいという欲求が、新たな観察方法を発見させる。あらゆる可能性が検討される。成分を測量する試験液が調合され、蝋で固めて輪切りにされた断面図が現れるまでの途方もないやり直しの連続。化学式がなんなく実物と結びつくころには、四年の歳月はあっという間に経ってしまう。それでも、考えてみれば稲穂が四回背を伸ばしただけなのだ。撮影のあとには、ひたすら回し続けたフィルムの編集が待っている。ナレーションを加える録音にはリール音が入ったり入っていなかったりするが、作品の完成度はもはや別のところにある。アングルが発見される。いや、発見できていたことが、後になって気づかされる。田と田を仕切るあぜ道をクロというが、いつの間にかクロを跳び越えていたことに気づくのだ。以前越えられなかった被写体との距離が、目に見える地形になって表れる。抽象性はいつでも具体的に現れるのだ。だからそれはもう壁ではない。泥にはまった足は、越えられた瞬間を確信させてくれる。もう対象との距離はない。なぜなら、土地に根づいた農民ににとってそうであるように、間借りをするように新しくはじめたこの生活は、撮影をする今の自分たちのすべてだからだ。新しく見つけ出されたアングルは、同化への欲求の結果生まれた。
 小川紳介の『ニッポン国古屋敷村』(一九八二)では、撮影するクルーの存在がカメラの向こうの存在に受け止められていく幸福な瞬間がいくどか訪れる。最初の瞬間は、小川紳介がその用語の素直な使用をためらう「冷害」に見舞われた昭和五五年の夏のことだ。この年の八月の気温は、山間の海抜五百メートル付近に数件の軒を並べる古屋敷部落では、八月でも三十度を越えることが滅多になく、ある日など最高気温が一五度を下回ったほどだ。農民に聞くと、夏のあいだは通常西から暖かい風が吹いてくるが、南東の県境にある山頂からガスが発生し、吹き降ろすような冷たい風が見られるという。この地域ではそれをシロミナミと呼んでいる。昭和五十五年はシロミナミがいつもより多く吹いた。一番被害が多かった下南沢では、「行燈穂(あんどんほ)」と呼ばれる受精していない空の籾がほとんどだった。撮影隊は早速、収穫することなく草刈機で青田刈をしている男と稲穂が実らなかった原因について調査する。周辺の地形を調べ、標高を示した模型を作成して、シロミナミを模したドライアイスの冷気を流してみる。この実験はいくつかの発見をもたらす。縮尺模型は、下南沢が冷気の通り道になっていることを教える。すぐさま湿度が調べられ、昼間でも稲に水滴がついていることが発見され、実験の正しさが証明される。同じ気候でも取れ高に差があった小松倉の地形を模型で再現すると、シロミナミを模した冷気は杉林に行く手を防がれ、すぐ脇を通る萱平川の水流が通り道になって抜けていくことが分かる。つまり、下南沢では山頂から吹き下ろす冷気の通り道になっているため稲の実りが芳しくないのに対し、川ベリの小高い丘にある小松倉にはその冷気は届かないのだ。実験室を離れ、実地で検分してみると、小松倉の田んぼに植えた稲の三列ほどがほとんど実っていないことを男が発見して撮影隊に知らせる。その三列は、地形上萱平川のそばの斜面の上にあたる。つまり、実験ではドライアイスの冷気は完全に小松倉を避けていたが、実際はシロミナミが斜面を駆け上がって三列ぶんの稲を冷やしていたのだ。実験の結果が修正され、得られたデータはより厳密になる。こうした絶え間ない観察は、撮影のあいだずっと続けられることになり、他にもいくつかの重要な発見がもたらされるのだが、われわれが驚かされるのは、観察という行為を通して、カメラを持つ男たちと被写体の農民がまだ見ぬ事実の古層に突き当たっていくのを目撃する瞬間だ。ここには完全な、というよりは望ましいかたちでの協調体制ができあがっており、抽象性と具体性は映像のなかでつねに均衡を保って存在している。カメラの介在は、ありふれた現実に発見をもたらすだけでなく、発見を通して現実を解釈する手段を手にすることでその現実を変える可能性をもたらすのだ。これは小川紳介に倣って革命ではなく土着というほうがずっとふさわしいだろう。更新されたものの見方を通して、以前のままの生活が組織されていくが、そこに齟齬はほとんど存在しないように見える。「暮らしをともにして」撮影するという小川紳介の方法論は、完成した映像で見るかぎりほとんど成功しているといっていい。小川紳介は、大島渚のインタビューで、彼が用いることになった方法論を次のような言葉で表現している。通常のドキュメンタリーのアプローチからしてみれば失敗で、応用が利かず、一回限りで参考にならない方法だと前置きした上で、「はすの台に登れるとは思っていません。……こんな好き勝手な作り方をしたぼくたちが、これで地獄に行けなかったら、ぼくたちのやり方は失敗だと思っています」という。小川紳介が自身の過剰な、のめりこむような融和主義的な撮影方法のもつ危険性を十分承知していたことは、この発言からもわかるだろう。客観的な科学的アプローチを採用するのは、ただ被写体との距離を限りなく縮め、ついには相手が自分であってもおかしくないような相即不離の境地まで追い詰めていくためなのだ。ここにはある種の確信犯的な倒錯があるが、過信がもたらす裏返しのナルシズムに陥るのを拒む抑制された映像が、絶えず自制を利かせている。奇を衒わない素朴なナレーションや字幕がかえって効果的な重石になっている。
 地形や土地の断層をめぐる冒険のあとは、記憶や回想をめぐる領域に突入する。とりわけ目を奪われるのは、その土地に多い花屋という苗字をもつ老婆だ。村の人が呼んでいる「おわり山道」という名前ができたのは、その老婆がずっと炭焼きのために県境の山を昇り降りしたからで、老婆は尻をぺたりと床にくっつけたまま喋りだす。ときおり道なき山道を登る老婆の後姿が挿入されるカットを通して語られるのは、かつては日常だった炭焼きをするために何度も山を昇り降りした記憶である。老婆は、すんなり言葉に出てこない記憶を思い起こすときに左の耳の裏をしきりに撫で、監督の相槌や質問を聞くときには顎のあたりを指先で掻く。こうした何気ない動作が目につきだすと、聞き手も彼女の記憶をともにしている気がしてくる。決して饒舌ではない言葉が、老婆の人生の日常だった山歩きのなかのひとつひとつの行動や仕草に光を当てていく。実際、そこで語られるのは、小さな背中に背負って昇り降りしたものの量(山上の窯で焼いた炭は八貫目一俵、薪は彼女のからだの大きさで十二、三束)であったり、たまたま目にした熊や旅人の姿であったりする。それらはいかなる劇的な要素をもつこともなく、単調なまま彼女の記憶にしまってある。だから、問い尋ねられるままに一通り思い起こした老婆がぽつんと、山歩きが嫌だった、と口にするとき、その言葉の重みに思わず打ちひしがれずにはいられない。それがいかなる意味においても真実でしかないことは、ときとして聞くものを耐えがたくさせる。なぜなら、彼女はその嫌で仕方がない仕事を一生のあいだ続けてきたのだから。監督は嫌だったという理由を、県境まで登る山道が遠かったからか、と聞くが、このいささか的外れな質問も、語られだした彼女の記憶を押し留めることはない。すぐさま老婆は目に浮んだ若いころの夫が持っていた鋸があまりに大きかったことを、手振りを交えて説明する。その瞬間、夫のすぐ脇で作業を見守りながら、ぼんやりと佇んでいる若い女の姿が老婆の肉体から突如として浮かび上がる。こうした印象は思いがけないことだが、このドキュメンタリーを観ているあいだたびたび訪れる印象でもある。山歩きが嫌だったという感想は老婆の偽らざる実感でもあり、まだ皺の刻まれていない皮膚をしたかつての女の実感でもある。老婆が口を開くとそのときから時間が止まったままのようにも思えるし、もはや取り返しのつかないほど時間が流れてしまったように感じることもある。記憶にはそのような層がいくえにも刻まれている。カメラは肉体に刻印された記憶の層を映像化することが十分に可能であることを小川紳介は教えてくれる。そして、このことは驚くべきことなのだ。
 労働の記憶に続いてわれわれは戦争の記憶の古層に侵入していく。戦争体験がもたらした個別の経験も価値判断も離れて映像に語られていることを観てみると、そこに現れるのはなんの変哲もない品物である。それは器楽隊が持つ真鍮のラッパであり、戦時中に発行された国債である。長いあいだずっと大切にされたことだけは、持ち主の手つきや品物がまったく古びていないことからもわかる。若いころの写真や戦時中の手紙や勲章、訥々とした問わず語りによって、そうした何気ないものたちに消しがたい意味が宿る。ルソン島で生死の境を彷徨いながらも命からがら帰国した男は、村で徴兵された男たちが何人も死んでいるために自分の喜びを素直に表せず、家のなかに引きこもる。そんなとき、押さえがたい衝動として男をとりこにするのは、かつて器楽隊でなんども演奏したラッパを思い切り吹きたいという一念である。男は楽器店で一万八千円払ってトランペットを買うが、どうしてもラッパが吹きたい思いに勝てない。するとそのことを聞きつけた豆腐屋の主人が、ありがたいことにラッパを譲ってくれた。そう口にした男は、大事そうにラッパをかかえて来歴を説明する。そのラッパは満州を経て牡丹江を渡り、弘前の二二二連隊を経過してようやく男の手許に届いたものだ。男はやおら軍服に着替え、山裾の深い森のなかで敬礼をしたあと、亡き戦友に哀悼を捧げるラッパを吹き鳴らす。また、女が仏壇の裏から木箱を持ち出してくる場面では、戦時中に発行された国債が目に飛び込んでくる。女が嫁いできたときにはその夫と一番年の離れた兄弟の末っ子の男の子は四歳で、母離れができずにまだ乳を吸っていたと写真を見せてくれる女は、その少年が昭和一八年に戦死したことを伝える。山形市役所が作成した戦死者の写真を見ても、どの顔がそうなのかもはやおぼつかない。戦死によって生じた軍事恩給は現金でなく、国が発行する役立たずの国債で一八〇〇円分支払われた。それはすぐには換金できず、長いあいだ仕舞い込まれ、ときおり取り出してはこれで山でも買えばと思う貧窮のときもあったが、結局国債は銀行で換金されることはなかった。女はいまでも、生活の苦しかったときに換金していれば、と思った当時のころを思い出しながら、木箱に仕舞われた軍事国債を見つめている。これらの場面では、ふたりが生きてきた長い人生がたったふたつの品物によって表現されている。ラッパ。軍事国債。記憶は具体的な物に宿る。「冷害」という用語の使用をためらった小川紳介は、その用語には人間の利益を当然視した価値観のみがあるといい、人間のことばがあるように稲のことばがあっていい、と理由を説明する。稲に人間のことばで話しかけても稲には分からないし、稲がしゃべっても人間のことばだけで理解するかぎり人間の耳には聞こえない。それでも、相手のことばを理解する術は必ずある。彼の方法論は、単にこの両者のあいだにカメラを置くだけでなく、積極的に仲介する手段としてカメラを用いる姿勢に表れている。記憶をたずねる小川紳介の質問口調が性急さに傾くときでさえ、彼と小川プロダクションの撮影隊がどれほどの時間をかけて村民との時間を共有しようとしているかを知ることができる。稲に「冷害」は存在せず、冷たい冷気による現象が観察されるだけだという小川紳介は、同様の信念で古老たちの記憶に対峙する。稲と人間のあいだに自然が存在するように、カメラと古老たちのあいだに時間が存在する。観察だけが、両者を結びつける。これは、待つことの大事さを教えた小川紳介の理念であるとともに、あくまで記録者であることにこだわったドキュメンタリー作家の理念でもあった。だから、物事は常に一方からのみ見て取られることだろう。カメラは常にひとつのアングルしか持たない。この圧倒的な理不尽さに耐えることのできる者だけが、カメラ越しに相手を見つめ続けてなお、相手とともにあることを過信することができるのだ。相手の懐に踏みこむ彼の方法をもっともよく語っているのは、彼が出資者に対する発言としてインタビューで述べた次のような言葉だろう。「金を貸してくれって言えているうちは、小川プロはまだ大丈夫だと思ってくれていい」。本当に困窮して途方に暮れた人間は、助けてほしいとも言えなくなる。だから、金の無心をしているうちはまだやれるという証拠である――この相手を説得するだけでなく必要なものを引き出す術を知っている男の不遜な自信だけが、長らく陽の目を見なかった記憶の住処を探り当てることができたのだ。「一〇〇年前か二〇〇年前か知らねげんども」と語りだされる村の開拓を表す伝承は、歴史として完璧に正しい。なぜなら、彼らの先祖は厳しい年貢の取立てを逃れるように作物の育たない山奥へと分け入った地で、唐辛子が赤く染まる「ポッ」という音を耳にしたように、物語を語りつぐ老婆の耳にこだまするその音は個人の記憶と先祖の記憶を融解させ、過去と現代をつなぐ時間の揺れを伝承するだけでなく、その過程で起こった忘却をも等しく受け継いできたからだ。小川紳介が古屋敷村で発見した過疎地の老人たちの営みと記憶は、はっきりと滅びつつあった。消滅すること自体は不自然な出来事だとしても「自然な形で村は消滅していった」。人間の営みは、繁栄しているときは文明と呼ばれ、滅びるときに文化と呼ばれると持論を語る小川紳介は、時間意識のはっきりとせずところどころに鮮明な映像や感覚が点滅する記憶の所在をつかみ出す。ただ滅びつつあるものだけが、かつては自明で唯一のものであったその資質を問われうるのだ。彼は自分に課す倫理的な態度を周囲の人々にも求めるのは当然だと信じて疑わなかった。だから、カメラとともに向けられる小川紳介の問いは、いたわりの温かさを持ちながらも、遠慮を知らず仮借ない。