視線の悲劇 マノエル・ド・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』(2009)

 愛するもの同士が見つめあうまでは、いかなる人物も見詰め合ってはいけない。
 まさかこんな緘口令が敷かれたわけでもあるまいが、リスボンから出発した列車で車掌が切符を黙々と切り続ける長いシーンで始まる『ブロンド少女は過激に美しく』(2009)では、偶然隣に座った見知らぬ乗客である女(レオノール・シルヴェイラ)が、マカリオ(リカルド・トレパ)という青年が訥々と話し始める告白をする横顔に、決して見つめてはならない何かでもあるように、視線をやや前方にきっちりと固定して耳を澄ますように相槌を打ち続ける。若いマカリオをすっかりのぼせ上がらせてしまったその視線劇を織り成す舞台装置――向かいのビルの窓辺にたたずむひとりの少女、「雪と黄金でできた真っ白な小鳩」と表現されるほっそりとした腕、風に揺れるゲーテの時代以来のカーテン、そして印象的な中国風の扇を紹介し終わったあとで、ようやく隣の乗客はマカリオを見つめるのだが、もちろんそのときには、すでに愛するもの同士が見つめあい、きっちりと教会の鐘が鳴り終わったあとなのだ。
「妻にも友にも言えないような話は、見知らぬ人に話すべし」。マカリオが語るこの原則は、『夜顔』(2006)でミシェル・ピコリがふらりと寄ったバーのカウンターで、バーテンダーに秘密を打ち明ける場面を観た者にとってはすでにおなじみのものであるが(このときのバーテンダーがリカルド・トレパであったことは言うまでもない)、見知らぬ人に親密なうち開け話をする、ということは、映画にふさわしい形に反転すると、親密な関係にある人の思っても見なかった性癖に遭遇する、ということでもある。この映画では、視線を交わすという一事が極めて重要な意味合いを持っていることは、古典的な切り返しショットが用いられているのがマカリオと件のブロンドの少女ルイザの視線の交差に限られていることからもうかがえる。しかも、切り返しが行われるのは、向かい合うビルとビル、洋品店のカウンターとその二階に上がる階段という、ともに地理的な位相差をしつらえたふたつのシークエンスに限られる。視線はまなざしだけに込められた公然の秘匿だ。向かい合ったビルの、開け放された窓辺で、他にはばかりがあるわけでもあるまいに、男は手紙で顔の下半分を隠し、女は扇で顔を隠す。『勝手にしやがれ』(1960)の最初のショットでジャン=ポール・ベルモンドがパリの市内を新聞紙ごしに見つめるように、そこには視線による結びつきとは別種の何かが隠されているかのようだ。
 したがって、この映画が悲劇の発端として据えているのがいくつかの窃盗事件ないし紛失事件だからといって、それはあくまでもいくつかの原因のひとつであって結果ではない。マカリオが勤める高級洋品店で、ルイザが訪れた日に150ユーロのハンカチがなくなり、パーティの余興でカードゲームに興じるルイザの足元でチップが消えたとしても、それはあくまでも悲劇の原因でしかないのだ。だから、困難を乗り越えついに結婚を果たしたふたりが、結婚指輪を買う段取りをつけて店を出ようとしたとき、店員にとがめられたルイザの手に買ったものとは別の指輪がしのばされていたとしても、このふたりの出会いが妻の盗癖の発覚によってあっさりと破綻したということにはならない。なぜなら、その結末よりもずっと前、結婚を叔父に反対されて街をほっつき歩いていたマカリオが海辺の塀に腰掛けていると、ひとりの紳士が現れ、「ここに私の大切な帽子があったのだが知りませんか」と尋ねる場面では、マカリオ自身が窃盗を疑われたりもするからだ。この場面は些細だが、若いふたりに悲劇があるとしたら、それはルイザの窃盗癖ではなくて、ふたりがいることによって周囲のものが消えていく、というまことに奇怪にして厄介な状況のほうである。実際、マカリオが結婚資金のためにと貿易で溜めた金は、カンカン帽をかぶった友人の連帯保証人になったためにあっさりと肩代わりさせられてしまうのだから、ここでの悲劇の質は、個人の性癖では決してなく、愛するふたりの視線の結びつきが招いたとしかいいようのない消失にまつわるといったほうがずっと正しい。愛し合うもの同士が見つめあうことを止められないように、この状況は当人にはどうすることもできない。だからこそ、ルイス=ミゲル・シントラが朗読するペソアの詩は、この上なく不吉に響くのだ。
「世界の不幸は、善意であれ悪意であれ、他人を思うことから生じる」。