消滅の技法 トーマス・アルスラン『売人』(1999)

 「抑制が効いている」という標語は、映画評の文言として出てくると、途端に「退屈」の同義語として受け取られてしまう。なぜなら、そこにはアクションを助長するような心情的意味づけも、心理的意味づけを助長するようなしぐさもないからだ。しかし、このもっともらしい理由は、実際にはほとんど取るに足りない。映画における禁欲的態度とは、アクションとも、心理とも関係がないからだ。一本の映画を観て、思わず「抑制が効いている」とつぶやき、その実感の後処理としてあれこれ理由を述べ立てることはできる。トーマス・アルスランの『売人』(1999)を観て、その簡潔なモノローグと、起こった出来事をなんの誇張もなしに切り取っていく編集の手際とを理由に、ロベール・ブレッソンの『抵抗(レジスタンス) - 死刑囚の手記より』を想起することはたやすい。しかし、だからといってこの映画が「抑制が効いている」というひと言をつぶやかせるに足る映画であるとは限らないのだ。もし、ここまでの文章で、なにか言いにくいことを言おうとしている態度があからさまにうかがえるとしても、先手を打たずにもらいたい。私がこれから書こうとしているのは、アルスランという監督が故意に、ドイツにおけるトルコ移民の生活を描くに際して人種的衝突という格好の題材を描かなかったという事実でもなければ、人物の歩行には横移動撮影、会話には聞き手を手前、話し手を奥に置いたフィクスショットという二大鉄則をほとんど崩さないその映像についてでもない。なるほどこうした物語上の「抑制」と撮影上の「抑制」は、それが上映の間中ずっと守られ続ける規則として作動する限り、われわれに「抑制が効いている」としゃべらせずにはおかないだろう。しかし、そのひと言はまだしゃべってはいけない。同様に、ブレッソンの『抵抗』が、いかなる奇跡も描かずにひとりのユダヤ人が牢獄を脱出するまでを描いたことが奇跡的なように、などと、あの蓮実流の裏返しのレトリックをここでさしはさむことも、できれば避けたいものだ。だから、ドイツにおけるトルコ移民の問題を、賢明にもトルコ人同士にしか通じない言語の問題だけに特化したことが、この映画の人種問題の提起のあり方だ、というような指摘もこの論のなかでは避けて通る。では、なにがそこまでこの映画を語りづらくさせるのか? それは、端的にいえば、この映画の結末はいったいなんなのか、というひと言に尽きる。実際、われわれはこの映画が選ぶロケーション――いたずら書きが目立つ市内の壁や、並木道が続く散歩する人影のいっさいない公園、蛍光灯がわずかに灯る薄暗い地下道、フォービートの単調なリズムが響くクラブを見るにつけ、思わずそれがオープンセットやスタジオで撮影されたかのような印象を受けてしまう。ここで挙げた四つの場所は、いずれもジャンたち売人が商売をするところなのだが、まるで人間の住んでいる空気が感じられないのだ。つまり、ほぼ全編がロケーション撮影でありながら、虚構の芝居が現実の敷居の一部を間借りして演じられた、という印象がまるで湧かないのだ。確かに撮影では、監督によって選ばれた、俳優と呼ばれる人びとしか出てこない。ロケ現場での撮影にまつわる現実的なあれこれ――通行規制や撮影時間の吟味、フレームの移動範囲の限定――が影響していることは間違いないが、カメラを向けた先に俳優しか出てこないからといって、そこに人間が暮らしていたであろう痕跡まで消し去ってしまうことはできない。おそらくスタジオで撮影されたのは、ジャンが尋問を受ける警察署の場面だけだろうが、アルスランのカメラは、まるで廃墟のようにロケーションの街の一角を切り取っていく。切り取られた街の風景は、撮影されるまでに営まれていたであろう日常の生活を、見事なまでに消し去っている。映画の体験に必然的な敗北として、決まりきったせりふ「抑制が効いている」をつぶやかなければいけないとしたら、私はこの意味でつぶやくだろう。だが、この言葉は残念ながら正しくはない。なぜなら、ふつうであれば誇張してしまうものを小さくみせるのが「抑制」の意味だとしたら、アルスランが行っているのは、小さくするのではなく、積極的に消滅させることであるからだ。すでに息づいている街の表情を、完全なまでに断ち切ること。こうした決意のもとにカメラを向ける者にこそ、ブレッソンの至言――撮影においてはすべてを忘れ、絶対的な無知と好奇心の状態に自らを置くこと、という至言が響くことだろう。だから、この映画が物語的な帰結として、つまり、ジャンという前科もちのドラッグの売人が、妻に促されて堅気の商売に鞍替えするも、すでに進行していた別居状態は変えられず、新しいレストランでの皿洗いの仕事に飽き足らずに再び路上でドラッグを売り始めるが、あえなく警察に捕まる、というプロットの要請が、ラストの街の情景を導いたのだとは思えないし、また、限りなく人物を中心に据えてきたカメラが、最後の最後に自らが敷いた規則のレールを外れ、だれもいない街の通りやジャンが生活していた無人の部屋、明かりがついたままのがらんとした厨房や、夜のビル街を連続して映し出す必然性を持っていたとも思えない。おそらく、トルコ移民の生活を主軸にすえたこの映画でアルスランが試みたのは、移民というのは身寄りがなく頼りない存在だという主張ではもちろんなくて、その土地に古くから住む人びとを根づかせ、他の地域から就業や歓楽の機会を求める人びとを吸い寄せもする街という存在が垣間見せる、廃墟の表情なのだ。そしてだれもいなくなった街にも、明かりは灯り続けるだろう。通りで警察の目を盗んで白い包み紙を売っていた売人の姿はなく、壁にスプレー缶を向けたであろう男は次の文字を吹きかける前に姿を消し、厨房で新しい客を迎えるコックは現れず、ロングショットで撮られた明かりを灯すビルにすら、人が生活している気配は感じられない。そこにはだれもいない。現実の光景でありながら、幕が下りた舞台のように、しんと静まり返っている。ラストの数カットで、寒々しくも、古びても、失われてもいない廃墟の姿を映し出したアルスランの『売人』は、都市が不意に見せる真実の姿を見事なまでに描き出している。