ふたつの時間  テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』(1988)

男の子よりも、ずっと早く女の子は成長する。
物事にはなににつけ、知るまでに要する時間というものがある。
このありふれたふたつの命題に息を吹き込んだ映画として、『霧の中の風景』(1988)は記憶され続けることだろう。実際のところ、このふたつの命題は、それほど仲がいいわけではない。まだ見ぬ父親に会うため、国際列車に無賃乗車をしようと立ちつくすふたりが、ベッドを抜け出しアテネからドイツへ長い旅を続けるロードムービーにおいて、その目的の地、再会の人である父親の所在は、でまかせについた苦し紛れのひと言に拠っていたとわかるにつけ、ふたりの手段である移動は目的を保証されず、したがって列車に乗り、親切でもあり不親切でもある同乗者を得ることは、いたずらな繰返しに過ぎなくなる。繰返しは、やがて国境が、一発の銃声が、視界を覆う霧が断ち切るだろう。だが、いずれにしても時計の針はここでは止まっており、行為の達成と目的の獲得という成長物語に必然の過程を辿ることがない。しかし同時に、移動はさまざまな出会いを生む。出会いがこの映画にふた筋の異なった時間を導入するだろう。年齢なみにたどたどしくも決然とした足取りのふたりの歩行のリズムが、繰り返しと偶然、停滞と予兆、持続と瞬間を親密に結びつけているからだ。また、出会いが約束するものは、弟のアレクサンドロスにとってよりも、姉のヴーラに大きな意味を持つことになる。このことはヴーラの特徴的な白いハイソックスだけが、この旅で唯一時間の経過を汚れやくたびれとして見せていることと無関係ではない。少女にとっての出会いの重要性は、通俗的な意味ですべての男は父親になりうるというわかりきった事実とはなんの関係もないことだ。ヴーラとオレステという旅芸人の一座の青年のやりとりで、しばしば弟のアレクサンドロスが背景の不器用な中間地点という構図に収まっているように、この差は、物語のなかで姉が十一歳、弟が六歳と設定された年齢の開きを、露骨なまでに視覚化している。だが、この事実から、男の子よりもずっと早く女の子は成長する、という命題が帰結するのは、女の子のほうがより多くの(ぞっとするような)性的なまなざしを浴びるからだという結論を導いていいものだろうか? ことによると、映画はその帰結を許しているかにみえる。父親に会いたいという単純な願いが導いた残酷な帰結よりも早く訪れる、オレステとの交友の破綻は、しかしながらずっと両義的だ。この違いに気づくとき、「気の置けない」という何気ない言葉が奇妙な深みを持って立ち現れてくることだろう。不意にオレステが人気のない道路で繰り返す、「こんなかたちで別れたくはなかったんだ」という悔恨とも懇願ともつかないせりふは、ヴーラをまだ子どもだと思えば、保護者としての役割を放棄し、バイクを通じて知り合った男とのきさくな気の置けない関係を「選択」したことを示すだろうし、ヴーラが十分に大人だと思えば、変わった姉弟だといいもし、ふたりに興味を抱きもしながら、クラブで同じロックを聴き、バイクに興味のある男と同じ酒を飲み交わし、同じジーンズをはいた尻を並べて通路の奥のほうに消えていく同輩を「選択した」ことに、この早熟な少女は嫉妬し、オレステはそのことで許しを求めているということにもなる。前者がたまたま道中をともにした者の負債感情に過ぎないとすれば、後者は純然たる恋愛感情になる。そして、おそらくは後者の読解が正しいのだ。ヴーラは後ろを振り返らずに歩き出すだろう。弟はただ姉の決断に従うのみであってみれば、時間はずっと早く女の子に流れるのだ。そして、その急速に流れる時間はオレステという青年にもおし留めることができない。
 この映画のなかでももっとも傑出した移動撮影は、男が姿を消し、再び現れるショットでみることができるだろう。篠突く雨に塗り込められた車道で姉弟を拾ったトラックの運転手は、薄汚れたレストランに入る。常連らしく、いつもの三つだ、とウエイトレスに呼びかける声には、心なしか艶が帯びている。酒を運んできた女にはばかることなく下世話な一声をかけるところから見れば、この店が正規の商品以外の品物を売っていることが明らかであり、女ははぐらかすようにその場を去る。だが、画面の外から、おれが先客だと言う男が現れ、人気のない店内は一瞬緊張に包まれる。運転手は男のもとにつかつかと歩み寄り、ショットで二杯立て続けにあおって血走った目のまま、両手をだらしなく広げる。鷹揚なつもりで譲って見せたしぐさはぎこちなく、振り返って姉弟に車内で食べろ、とどなる運転手は、店を出た後も、じっと照明の灯った店内を見つめている。こうしたシークエンスを周到にも用意された観客は、続く翌日の早朝のショットで、道路脇の空き地にトラックを停めた運転手が、荷台で眠ると言って車を降りた瞬間に、ひどく居心地の悪い移動撮影に出会うはずだ。問題のショットは、停車したトラックを正面から捉えており、やや運転席寄りになっている。男に声をかけられた姉は目を覚まし、弟はダッシュボードにおでこをつけて眠りこけている。運転手は荷台のある後方に姿を消す。そのときも、ゆっくりとカメラは、目を覚ましたばかりの姉を中心に迎え、そのままトラックの反対側の空白をいやがうえにも強調する。この移動撮影の速度は、極めて緩慢であり、決定的だ。その速度に合わせるように、荷台の陰から運転手がのっそりと姿を現した瞬間、これから避けがたい事態が、ふたりのうちの一方に起こることを知る。かなり後方では自動車が二台停まり、ふたりの守護天使であるオレステと同じジーンズ姿である青年が現れるが、当然のようにその青年はオレステではなく、車を乗り換えただけで走り出す。こうしてショットは次なる舞台である、ゴム製の覆いで隠された荷台へと、連れたてられた姉が吸い込まれていく姿を映し出す。このショットが残酷なまでに美しいのは、すべてが暗闇のなかで起こるからではない。その暗闇が、目を覚ましてふたりがいなくなったことに気づいた弟が、姉の名前を叫んで走り出すときにも、沈黙を守り通したことが美しいのだ。弟は見当違いな方向に走り出し、しばらくして、荷台の暗闇から白いハイソックスをずり下げられた幼いすねがうっすらと見えてくるとき、思わず帯びた戦慄を留めることはむつかしいほどだ。この場面は早朝で、淡い光が包む濡れた大地を映し出しているにも関わらず、完全なる漆黒のなかから肉体が不意に出現したという印象を見るものに与えるだろう。ヴーラは荷台に腰をかけ、運転手はニットキャップを目深にかぶって運転席に戻る。カメラはゆっくりと強姦されたばかりの少女に寄る。めくれあがったハイソックスがみえなくなる瞬間、少女の膝のあいだから鮮血が流れ出し、放心した表情で真っ赤な自分の一部であるものにそっと指先を重ねる。このわずか2カットで撮られたシークエンスがすばらしいのは、それでもふたりがこの過酷な旅を辞めないばかりか、こんな出来事すら、旅を続けるために必要な教訓として、その後に活かされるだろうからだ。
 多くの青春ドラマが、成長し終わったあとの大人になった時点でのナレーションを入れて、興ざめな感傷にふけってしまうという過ちを犯すものだが、アンゲロプロスはこの点を見事に避けている。この映画でもナレーションが使用されており、画面外の声は父親にあてた近況報告(届かない手紙)といった体裁を取っている。無賃乗車した列車の音――タタン、タタン、タタン――が、父親のこどもにあてた気遣いのひと言となって空想されるように、この映画のなかでは、いったん失われたものが違う形でよみがえる、という反復の正当な形式のヴァリエーションを見ることができるだろう。オレステがブリキのくずかごのなかからフィルムの断片を発見するように、海中から(おそらくは)レーニン像の一部だったと思われる巨大な指先が忽然と現れる。こうしたひとつひとつの事象は、それ自体では完結したイメージの断片として留まりながら、同時にまだ見ぬ父を指し示す不完全な道標を象徴している。露出のミスで感光したフィルムの表面は霧のようで、オレステはどこかの建物のの案内板の明かりに透かし、この霧の向こうに丘が広がり、一本の木が生えている、と見えない景色を口ずさむ。また、レーニンの指は欠けており、ヘリコプターのロープに揺られて指は定まった方角を示さない。ふたりの父を探す旅にとって、その目的の地ドイツに父がいないかもしれないという厳然とした事実がなんの障害にもならないように、過ちは否定されない。時代が去り、歴史は過ちを認めても過去を粛清できないように、フィルムが現実を映し出すことができなかったとしても、それは霧の光景として残る。ふたりの長い長い旅のように、時間へのまなざしは、ただ見るものをかの地へと導くだけだ。