(その三十三) 芳子某

「あんた、北海道でバスガイドやるための秘訣ってわかる?」
 芳子はかつて職場の先輩の花江に、そう聞かれたことがある。まじめなことがとりえで、自分でもそう思っている人間特有の鼻持ちならない愚鈍さをのぞけば、仕事もてきぱきとこなす芳子は、語尾が心持ち上がるアナウンス口調を苦労して押さえながら、きまじめな調子で答えた。
「お客さまが覚えてきた地名に、ちょっとした由来をつけ加えることでしょうか。お土産話にもなりますし」
 横浜出身で、田舎の人間を馬鹿にする態度を隠さない花江は、ゴールデンバットの煙を吐きながら、軽蔑した口調で答えた。
「あんたは正しいわ。でも、正しい話なんて退屈よ」
「じゃあ、秘訣ってなんなの?」と芳子は言った。花江のせりふは、当時札幌駅の近くの二番館でかかっていたフランス映画の字幕で読むことのできたものだ。芳子もその美しい女優のシニカルなせりふを真似をしようと、寮の四人部屋にひとりでいる土曜日の昼日中に、こっそりと練習したことがあった。壁に貼ったアラン・ドロンのポスターを見ていると、あたかも自分が女優になったかのように感じた。もっとも、フランスきっての二枚目の顔はあまりに大きく平らで、吐息がかかるくらい近くにいる雰囲気を作り出すためには並外れた注意力が必要だったのだが。頭のなかに思い描いたアラン・ドロンの顔がぼやけるたびに、眼を薄く開いて巨大な顔に出くわさなければいけなかった。それでも、気分が乗ってくると、見たこともないナポリの潮の香りがゆっくりと鼻先をかすめるような気がするのだった。でも、正しい話なんて退屈よ。肝心のせりふは、いつまで経っても芳子には似合わなかった。正しい話がなぜ退屈なのか、その理由がつかめなかったのだ。自分が練習の甲斐もなく人前では口にしたことのないせりふをさらりと言ってのける花江に嫉妬した。
「お客なんてね、右向け左向けなんてマイク越しに言われたって、弁当箱に首をつっこんでんのが落ちよ。なにも観ちゃいないわ」
 芳子はそぼろ弁当の茶色と黄色の二色を思い描いて、おなかをさすった。
「秘訣なんてないじゃない」
 相手をからかうこと以外に取り立てて話の落ちを考えていなかった花江は、憮然として答えた。
「あるわ。まっすぐな道よ。こんな道はなかなかないわ」
 煙草をもみ消すと、花江はトイレ休憩で停車中の別のバスに乗り込んでいった。芳子は腕時計で集合時間を確認し、ぼちぼち休憩から戻ってきた客に声をかけた。
 大昔の何気ない出来事を思い出したのは、観光バスに乗り続けて四十年も経った自分が、一日に四回も「このまっすぐな道はいかがですか」と口にしているのを発見したからだ。口からついて出る言葉はどれも暗記した文章だった。ラジオで講談を聞いたり地図を見て地名や山地の標高を覚える訓練はひとしなみにした。バスガイドには資格がいらず、決まった練習のしかたはなかった。自分の娘ほどの年頃の後輩が現れるたびに、なにかマニュアルはないんですかと聞かれて閉口したことがある。
「手ほどきは自分でみつけるものよ」
 そう答える芳子に後輩はあこがれを抱き、ベテランの運転手に口説の調子を聞いたのだが、運転手は笑って言った。
「あのばあさん、道がまっすぐだってこととか、農家の畑にセロリが植えてあるとか、そんな話ばっかだよ」
 後輩は失望し、さきほど抱いた敬意などどこ吹く風で、芳子のからだの線を思い浮かべた。あんなに肩が筋肉質なのは、座席上部に取りつけられた手すりをぎっちりと握っているからに違いない。それに、あの寸胴型の腰まわりだって、バスの揺れにも微動だにしないために発達したんだわ。お尻も垂れてはいないけど、太ももは年齢並みに肉が落ちているものだからまるで巨大なこぶ、らくだが二本足で立ち上がったみたいだわ。後輩はまだ若く、職業的な刻苦が肉体につけ加えるものといえば、日焼けやふくらはぎのつっぱりしか知らないものだから、絶対に富良野の割り当てには選ばれるまいと固く決意した。「北の国から」の放送以降、ファンを自称する観光客が大挙して訪れるようになった富良野には、ラベンダーのシーズンともなれば、観光バスがひっきりなしに通っていた。最近では富裕な中国人団体客も来るようになって、トイレの場所や喫煙所を知らせる案内板の文字は、日本語と英語の二ヶ国語の表記だったのが、中国語と韓国語が新たに加わった。なかでも中国語は一番上になっていた。ある添乗員の薦めに従ったもので、そうすれば売り上げに響くということだった。
 芳子はその富良野地方を担当するようになって八年目になり、地域の三大名所や三大名物の最後のひとつを度忘れする癖がはっきりとあらわれるようになっていた。そのたびに芳子はマイクの電源を切って、小さく舌打ちしたり、あれなんだっけとつぶやいたりしたが、本人は隠しているつもりもなく出てきてしまうそんな不用意な音漏れが、前列ニ列の観光客にはエンジンの音にまぎれてはっきりと聞き取ることができた。さらには、調子を整えるために口にする一連の口上も、最近ではつっかえてしまうことがあった。それは「花は桜、山は富士」の類の文句にかけた口上のことで、意識的に用いられた同語反復は、言葉がリズムに乗ってくる足がかりにするために発するものだと芳子は信じていたのだが、「赤い花を咲かせるのがレッドラベンダー、黄色い花を咲かせるのがイエローラベンダー、白い花を咲かせるのが」とここまで問題なくきていたのに、いうべき言葉を忘れてしまい、ため息混じりに「白ラベンダー」などと口をついて出るころには、ホワイトという締めくくりの単語は見事なまでに消え去っていた。
 そんな調子だったから、富良野まで足を運んだ観光客は、観光よりもバス移動のほうが長い道中でこの熟練のバスガイドが、まさか本気でこうしたとちりを組み込んでいるのではあるまいな、などと勘ぐってしまうのだが、そんな折にきまじめな調子で、「この道の直線はいかがですか」などとマイク越しに聞こえてくるものだから、余計にこれはタチが悪いぞ、と鼻白む思いを強くする。だが、芳子はそんな観光客の静かな動揺に思い至るふうもなく、きわめて律儀な調子で、自然のほかにはなにもない平野を、途切れることないマイクパフォーマンスで紹介していくのだった。
 だから、かつて先輩の花江が軽蔑とともに口にした、北海道の見所である「まっすぐな道」は、芳子のなかではしゃべることが見つからないときに出てくるとっさのひと言として、むしろ重宝されることになった。芳子はそこから合わせ技として、日本一の直線道路はどこにあるのか道の観光課に問い合わせると、それは幸運にも(もしくは当然にも)北海道にあった。美唄市から滝川市に通じる29・2キロの直線を、芳子は「本州ではこれほどの直線道路は見られないでしょうが」という前置きのもとに切り出すのだったが、この付加的な挿入をはさむのは、「まっすぐの道」に観光客の意識をはっきりと意識させた、三度目のアナウンスでいうべきだという結論に落ち着いた。これは、大事なことは繰り返す、という学校で教わったことのなかではもっともためになる教訓と、観光バスでは同じ景物を何度も眼にすることがある――札幌市では、羊が丘展望台に行っても冬季オリンピックで使用したジャンプ台に登ってもあのメタリックのドームをいろいろな角度から見ることになるし、富良野では延々と続く丘陵を見続けることになる――ので、それに合わせてアナウンスも繰り返すべきだというのが芳子の決して口には出されない主張であったが、富良野くんだりまで足を運んだ客は、自然を賞美するために来たというのが建前であったとしても、広大な畑のうえに整然と並んだ赤い穂の列が飼料用に育てられたトウモロコシだと聞くと、なるほどめずらしさに車窓に目をやり、民家の庭に咲くナナカマドの由来が、そのあまりの硬さのゆえに何度もカマドに入れて焼いても炭にならなかったからだという由来を聞きもすると、なるほどそうかとは考えもするが、八回カマドに入れていたらハチカマドになっていただろうと結論づける芳子に、そりゃそうだがといくぶんか失望し、なぜ自分が失望したかについてはとんと気づかないまま、目に見えるすべての事象を説明せんと欲する芳子の職業倫理に次第に倦んでくるのであった。観光客などというものは概して身勝手なもので、まだ自分の見たことがないものを見たいなどという不遜な欲望を抱きつつ、そのくせ観光バスに乗り込んで当地におとずれる一律的な存在でもあるのだから、説明してくれるのならいっそダイジェストで、などと身勝手な要求を突きつける。きわめてきまじめな性格の芳子は、そうしたツアー客の要望に答えようとしてはいたのだが、ついに観光客には理解されることがなかった。
芳子はトウモロコシを飼料用だといい、ナナカマドの名前の由来を説き、ラベンダーの花を色ごとに名づけもし、箱詰めされるまえのジャガイモが巨大なコンテナに詰まっているのを、あれはジャガイモだ、別のコンテナに入っているのが玉葱だ、その隣は牧草地で今は牛を牛舎に入れているために見ることができない、あれはまたジャガイモだ玉葱だと矢継ぎ早に口にするのであったが、観光客の求めるダイジェストは、当然のようにそれとは違っていた。芳子の説明は、芳子自身に見えたものの説明でもあった。富良野の一本道を、バスは八十キロ近いスピードで走り抜けるのであってみれば、芳子の説明は遅すぎたのだ。バスの乗客は右に左にと忙しく首を振り続けなければ目的のものに追いつけず、そうした作業が長いバス旅でどれだけたいへんなことかは、ついに芳子の知りえない事実に留まった。芳子にとって富良野の現実とは積み上げられた玉葱であり、ジャガイモであり、民家の庭草であり、畑や牧草地であった。しかし、観光客にとってそうした現実は、車窓からきれぎれに飛び込んでくる映像に過ぎず、ダイジェストとはそうしたものをひっくるめたなにかであった。
バスガイドと観光客の要望は、こうして平行線を辿った。それでも、芳子がときおりつっかえたり、いい間違いを繰り返すのを心待ちにする観光客は確実に存在して、いつしかその興味は芳子という、冗談を口にしたつもりなど毛頭ないままマイクを握り続けるきまじめな女の一挙手一投足に向けられることになった。おそらく、自分の説明に耳を傾ける者が求めているのが、職業的案内人としてこれまで培ってきた話芸などでは決してなく、それと同じ年月をかけて身についた癖――言いよどむときにマイクを握りなおして横を向くしぐさや、とっさの度忘れを進行確認に見せかけるために意味もなく突き出された二本指など――に向けられているという屈辱的な事実を知ったら、芳子は傷ついたに違いない。しかしながら、赤ん坊が泣き喚こうが、熟年の夫婦が背もたれ越しの見えない喧嘩がもとでさっと席を移動しようが、客席の動向とはまったく無関係にアナウンスを続ける訓練を積んだ芳子には、対面して首を並べる客の顔にそんな欲求が渦巻いていることに気づくことがなかった。
富良野行脚を終え、札幌市内に戻ってきた観光客が、渋滞を作る道やスーツの群れ、立ち並ぶビル街やネオンの色とりどりを目にし、ようやく人心地ついたと、幹線道路の着工年次や製造にかかった総工事費をすらすらと口にするあいかわずの律儀さの芳子に、なにか憐憫でもない愛着を覚えることになる。最前列の客たちは、工事費がいくらかでつっかえる、なんだっけというひと言を耳にしても、どちらでもいいよ、五十七億でも五十八億でも、一億なんてはした金さ、と鷹揚な気分になって、終盤を迎えた芳子のアナウンスに耳を傾ける。だから、すっかりくつろいだ状態で札幌駅の広大な敷地を横切ったあとに、まるで不意打ちのように、「こちらは人生の終着駅、円山墓地でございます」などと平然と言ってのける芳子を目の当たりにして、今のはさすがに狙っていったよな、と勘ぐりながら、仏頂面の芳子の顔を見つめてテンポの遅れたくすりという笑いをもらす余裕を手にしていたりする。芳子にとっては、かつての観光客がこうしたひと言にどっと笑いどよめき、現在の観光客が逡巡しながら結局は表情を引き締めるのか、その違いがわからなかったし、また気にしたことすらなかった。観光客の奇妙な譲歩、相手が自分を笑わせようとしているのがはっきりとわかってから笑うというその態度には、別種のきまじめさが含まれているのだが、芳子のまじめさとは違うものだった。違うものではあったが、バスという閉鎖空間でマイクを支配する芳子のまじめさに対応するまじめさであることもまた事実であった。
 一日に四回も「まっすぐな道」について言及したその日、芳子は札幌市と室蘭市を結ぶ国道三十六号線が弾丸道路と呼ばれるようになった標準的なふたつの説――着工から完成までが異様に早かったという説と、米軍の駐屯基地に運ぶ弾丸が運ばれた道という説――をよどみなく口にしながら、ふと車窓に人影を見た気がした。その影はかつての想像のアラン・ドロンの甘いマスクのように、ぼやけてはいたが、注意深く再現するとはっきりと像を結んだ。そして、不思議なことに、その人影の顔は上原謙に似ていた。『有りがたうさん』で田舎の山道を走るバスの車窓を演じた俳優が、ことのほか芳子は好きだった。通りかかる村人や集配途中の郵便配達夫、道路工事に駆り出された朝鮮人労働者や耕作に行く途中の牛が道を譲ってくれるたびに、いくぶん甲高い声で「ありがとう」と口にすることからそのタイトルのように呼ばれるようになった車掌が主人公の映画。芳子が初めて母親と手をつないで観に行った映画だとあとで教えてもらっていらい、上原謙は、世代は違えど芳子の永遠のアイドルであった。後年バスガイドを選んだ理由も、この今だ見ぬ原初の記憶に基づいていたと、ようやくその日に芳子は思い至った。だから、あるはずのない人影は、大いに芳子を動揺させた。そして、自分でも思いもよらぬ言葉が口をついて出た。
「戦争が終わり、進駐軍が来たばかりの頃は、赤や青、黄色といったけばけばしい色のペンキで塗られた建物がこの一帯に建つようになり、風紀の問題が取り沙汰されました」
 そのひと言は唐突なほど長く、観光客は耳をそばだてるでもなく続きを期待した。芳子が言うような建物が陽が沈んで青みを帯びてきた都市のどこにも存在しないだけに、よけい好奇心がくすぐられた。しかしなんだって、青や赤、黄色なんだ? それじゃ信号とかわらないじゃないか。いや、ことによると、ここで軽口がとびだすかもしれないぞ、と先手を打って身構えるものもいた。心のなかでは、新千歳空港の近くに建つアウトレット専門のショッピングモールに寄るだけの時間的な余裕があるかどうかを気にしながら。
 芳子の職業倫理はほとんど完璧なものだったので、自分が思わず思い出話を始めそうな気分になっているのを自制しながら車窓を眺め、路上駐車したトラックを横を通るときに、「オーライ、オーライ」と安全を確認する合図が口をついて出た頃にはもう、すでに人影ははるか後方に消えていた。
 あれはなんだったのかしら、と芳子は後方を見つめた。一瞬目にした黒い影が、まさか本当に上原謙に似ていたとは思われない。なにか夢の続きのような、あとで思い返すとその本人とは似ても似つかない顔立ちのひとをそう呼んでいたような、ちぐはぐな後味が残った。だが、実際に見たものがなんだったのであれ、記憶として呼び覚まされたものははっきりしていた。芳子は叔母のことを思い出していた。
「こうして皆様とお時間をともにしてきた今回のバスツアーも、いよいよ終わりが近づいてまいりました」そこで芳子は再び前方を見た。そのなんとも口にしづらいツアー名を確認すると、再びマイクのスイッチをオンにした。運転手に事伝えて、札幌で下ろしてもらおうと芳子は決心した。私は札幌に用事がある。その何気ない文句が、芳子の決意を固くした。問題は、叔母がまだ札幌にいるかどうかだった。芳子は最後の口上を暗記した通りに述べ立てた。あと通りを三つ曲がれば、観光客が宿泊するホテルに到着する、とバッグに忍ばせた手をふいに引っこめ、胸のあたりで待機させる観光客のひとりを見て思った。時間にして三分弱。信号で二度止まるからこの時間なのだ。今日は一日たいへんだった、と芳子は思った。とりわけ、柿の種を食べていたおじいさんが、突然こみ上げてきたくしゃみを避けようとしたときは。おじいさんは、残り少なくなったので、ビニールの袋に入った柿の種を一息に吸い込もうとしていた矢先だった。喉もとをくすぐる衝動があまりに咄嗟のことだったので、柿の種を口元からわずかに上に逃すことしかできなかったが、くしゃみで吹き飛ばすことだけは避けることができたらしかった。芳子は、四列目の通路側に座るそのおじいさんの姿をはっきり見ることができた。おじいさんがくしゃみの突風をかわしたのもつかの間、すっかり肺が弱っていた御老体は、吐き出したぶんだけ空気を欲していた。そして、発作のように息を大きく吸い込んだのだが、そのときには鼻先に柿の種が突き出されていることを失念したらしい。おじいさんの毛がはみ出た鼻の穴に、あわれな柿の種は吸い込まれていった。この粘膜にしたたか加えられた一撃に、おじいさんは驚き何も持っていない方の手で押さえた。しかし、力が強かったのか、押さえた瞬間に鼻腔のなかで割れた柿の種が、柔らかい粘膜にしたたか食い込んでしまった。芳子は、おじいさんがくしゃみをし、柿の種が鼻穴に吸い込まれ、ついで血が止めどなく溢れてくる一部始終を目撃した。このトラブルによって、高速を走っていたバスは停車するかどうかの瀬戸際まで追い込まれた。おじいさんの妻が、ついさっきまでおとなしく柿の種を食べていた夫の鼻から血がほとばしっているのを見て、すっかり動転してしまったからだ。夫は大病もちなんです! と妻は叫んだ。マイクを握り、その場のすべてを――一通りは把握している芳子は、いいえ、柿の種です、と叫んだ。そのばかばかしいやり取りは、その場では何が起こったのか理解できず、にわかに起こった流血沙汰にくすりとも笑わなかった観光客が持ち帰る、絶好の思い出話となった(「じいさんは無言さ、血はだらだら流れてたけど。そいつをはさんで、奥さんとバスガイドが白血病だ、柿の種だって言い合ってるんだ。なんのことだかさっぱりだったよ」)。
 芳子のアナウンスが終わると、乗客は残らず拍手をした。この瞬間だけは、神妙な雰囲気になった。生来の話べたに加えて、加齢とともにやけっぱちな、投げやりな一本調子とでもいったような話しぶりには、商店街の服屋のくすんだ窓ガラス越しに見える、何年も代わり映えのしないマネキンを思わせるところがあった。声音にしたところで、決して美声とはいいがたかった。それでも、最後の瞬間だけは、どちらも本心からお互いの労苦を認め合うような、親密な一体感が芳子と乗客を包んだ。拍手が済むと、バスは停車し、芳子はホテルに着いたことを告げた。
 別れの挨拶を交わした芳子は、やや伏し目がちだった。バスの腹の中にしまわれていた重たい荷物を持てば、主導権が代わるとでもいいたげな観光客は、芳子の肩を叩き、ねぎらいの言葉をかけた。芳子は動じるでもなく受け流し、足早にホテルのエントランスに吸い込まれていく脚の群れを眺めていた。叔母の自慢はナイロンのストッキングだった。ストッキングを買うお金がなくて、ふくらはぎに油性ペンで縦棒を引くシーンがある、あの映画はなんてタイトルだったかしら。ネッカチーフを巻いて、今ではとっくに古ぼけてしまった肩パットの入った紺のジャケットを着て颯爽と歩く叔母は美しかった。陰ではハウスメイドなんて何をしているのか知れたものではない、と言いながらも、だれもが叔母の歩く姿に見とれていた。叔母はそうした人々の声を知って、なんとか懐柔しようと缶詰を配ったりしたのだが、あれは幼い私から見ても失策だった、と芳子は思った。近所のものは、余計に裏と表を使い分ける算段を巧妙にするだけだ。芳子は最後のひとりがホテルに入るまで姿勢を崩さず、手と手を添えて二本の脚を見守った。
 乗客のひとりがバスのなかをひと通り確認していたので、忘れ物がないか、簡単に目を通すと、芳子は運転手に事情を伝え、すっかり闇に包まれた札幌の街を歩き出した。その道は、当然のようにまっすぐではなかった。記憶を辿り、就業時間も過ぎてもうほとんど区別のつかなくなったビルの群れを見上げた。バスのなかだとはっきりしている光景も、ひとりの観光客のようにとぼとぼと歩く夜道では、途端にぼやけてしまう。芳子はその理由を、まだ決心がしっかり身に沁みていないからだ、と思い、巨大なデジタル時計が目印になる放送塔の方角を見上げた。疲労が足先から上ってきた。こんなときは、いつでもからだが軽く感じられたものだ。爪先に力を込めて、前のめりになる自分を必死に押さえながら前に進めた。仕事で疲れきった人間は、まっすぐねぐらに帰らない。私はこれから西に向かう、だから塔は右手にあればよい、と芳子は声に出し、再び歩き出した。最後に叔母にあったのはいつだったか、懸命に思い出そうとつとめながら。