(その二)『女大学』の時代

 かたい武家の家や、商家でもしっかりした家風の家、郷士、土地の旧家などで、小ゆるぎもしない古くからのしきたりで、時勢の変遷などよそにみて、格式通りの生活をつづけ、冠婚葬祭も慣例に従って、『女大学』はそこで重要な、女のありかたの支えになっていました。それだけにまた、婚家の姑の勢がつよかったものです。岩永某という千石取りの家に、同格の家から嫁をもらいました。岩永のあと取り息子は、きりょう好みで、すっかりその娘が気に入り、深窓に育ったその嫁も、嫁しては夫に従うで、似合いの夫婦でむつまじくいっていたのですが、ある日、嫁が入浴をしているところをかいま見た姑が、即日嫁をよんで離縁を言いわたしました。嫁のきず物で、きず物は受けとれないというのです。なるほど、裸でからだをあらっているうしろ姿を姑がみたところ、背すじの横に傷があったのです。小娘のころ、庭でころんで、そのとき、そぎ竹がささったあとなのです。去られて娘が実家にかえると、頑固な父親は、ろくにわけもきかず婚家がお前の家で、ここはもう帰るところではない、一晩もとめられないと言って、受け入れてくれません。彼女はふたたび婚家にかえりましたが、駕籠のなかで懐剣で胸を突いて死にました。息子は悲しみのあまり部屋にとじこもって食事もろくにとりません。むろん、人にも会いません。門番はちょうど、嫁の死体をのせたかごが着いた時刻になると、それから毎夜かごがついた気配がしますので、小屋の目かくし窓からのぞいてみると、誰もいないのです。そして、息子のいる離れ家の燈が急にあかるくなって、ひそひそと話し声や、あかるい男女の笑い声まできこえてくるというのです。話のあとのほうは、怪談趣味で、そこまで話をもってゆかねば気のすまないのがその頃の人のこのみといってもいいでしょう。小泉八雲のなかにも、嫁と姑の怪談があります。病んだ姑が、嫁の背におぶさって庭に出たところ、おろすところになって、背はれた(ママ)老女の爪が嫁の肩に食いこんでとれないという話です。外からはつつしみぶかく、そんな気振りもみせないでいて、内攻した敵意のふかさは、あたりを墓場にかえてしまうほど陰々滅々としたものです。まま母の子供いじめも、おとらず悽愴なものです。本妻と妾の呪いあいも、陰湿な日本の風土のなかでしっくりしています。子のない妻と、妾とは一つ屋根の下に住み、一人の男を奪いあい、あらゆる執撓な手をつかいます。妾に子供ができれば、本妻は肩身が狭く、形のうえだけででも妻の威厳を保ちさえしていれば、それはよくいっていると言っていいのです。そういう一家の本末転倒に対して、むかしは発言権をもつつよい親戚がいたようです。親戚たちの協議で、一家を処理するようなこともあったようで、支配者階級も干渉する面倒をなるたけ避けて、縁者たちの裁決に任せるのを望んでいたようです。親戚たちもひろい一家とみているわけです。家風に合わないという名儀で、紛擾の元となっている人間をその家から追い出すとか、倒産しかけている家の責任者を隠居させて、他のものにゆずりわたさせるとかいったことです。自分の亭主をすっかり尻に敷いている女も、親戚合議の席に出ると、女はやはり物の言えない立場に置かれて、理の通せないことが普通でした。封建的なものがそっくりのこっているような古風な家でも、明治、大正の家は同日に論ずることができません。親戚をふくめた大家庭の観念は旧幕までのもので、それぞれの家の生活が忙しく、また、別家のことに干渉する権限をもつほど相手になにもしてやれないということもあるのです。とにかく、『女大学』が一般に不人気になってきた時代にも、その教の要旨だけは、いわゆる、良家の婦となる資格として、学校教育にもとりあげられ、娘の父兄たちもじぶんの娘たちの将来のためにまちがいのないものとして、カビくさいのは承知のうえで、そのモラルをいまなお支えているわけです。江戸時代に卑俗化され、庶民のあいだにひろがり、普及した『女大学』は、じぶんのやっていることはそれとはまったくうらはらな一個一個の人人、たとえば、宿場女郎や、やりてや、つつもたせや、板の間かせぎをするようなあばずれにも、表口からは避けて近づくまいとしながらも、大きな劣等感を抱いている証拠に、常人以上に涙ものや、感心な話には過敏で、案外にじぶんたちの境遇をsh会の罪にして食ってかかったり、意気にも正当化してみせようという者は少なかったようです。そして、泣き所にふれると、みいちゃんはあちゃんと変りなく、盲目の沢市につかえるお里の貞節や、乳人政岡の忠烈、力士稲川の勝角力を願って苦界に身を沈める女房おとわの胸の内、お軽の身うりなどに、おしげもなく涙をながすのです。つまり、『女大学』や『孔子家語』の教えるところが正しいことは、公方様の世のうごかないのとおなじで、すこしの疑うところもないが、その道からはずれたじぶんは、どんなになげいても、悲しんでもしかたがないという、絶望とあきらめに到着し、いやしいじぶんがいやしいことをしても当然とおもうのです。そういう、最低の線でも、『女大学』はれっきといすわりつづけていたのでした。あたかも、強欲な借金取りのように。
 江戸の女は、男女の別という差別待遇をうけ、女は前世の罪が重いと坊主どもからはケチをつけられ、初産が女だといっては、愁傷がられ、そのうえ、ちょっとした不しだらでも一生のきずにされ、丙午だからといって縁がなく、不器量なれば見むきもされず、どちらをむいても立つ瀬のない世の中に生まれあわせたようですが、時代の差異はあるにしても、どこの国でもおなじようなもので、中世期のフランスでは、女は竃の前にうずくまっているべきものと一般には考えられていましたし、支那でも春秋時代、秦の穆公のもとにようのおともをして百里奚が来たことが本にのっていますが、ようというのは、嫁いでくる女に姉妹があれば、ついでにそれもいっしょについてくるという制度です。十人姉妹があれば、十人ともいっしょにもらうのです。このごろのテレビの賞品のようなものです。江戸の女も、はなとか、とくとか呼ぶだけで、素性をたずねるとなると、何兵衛妻はな、何衛門とくといった案配で、女は存在がかすかで、いるかいないかわからなくしているほうが、しおらし気があるといって、好感をもたれるというわけでした。でも、それは、帳づらにざっと目を通しただけの思案で、いつどこでも、男と女は対等なのが本来のありかたで、くずれているようでそれがくずれないのは、それこそナチュウル、ナチュウルです。客の前では、いばり散らしてみせる亭主が、こっそりと、女房の下帯を洗う図は、別にめずらしくもありません。男の『大学』には教えてありませんが、男もまた、女につかえる動物です。江戸の女も男から一方的に邪慳にされていたわけではありません。戦前、銀座のデパートで、城東のほうの古寺にある、ある武士が死んだ恋女房の姿を人形に彫らせて、朝夕、生きているようにそれに話しかけて、終生かわらなかったという、その人形が陳列されたのを見たことがあります。等身大で、女の着ていた衣服をつけたその人形は、死顔をうつしたものらしく、みていると鬼気が迫ってくるようでした。江戸時代にもそんな律儀な男がいたのです。『女大学』をつつましく習って、世にも美しく添いとげて、しあわせというよりほかない生涯を送った男、女もざらにあったでしょう。性分にはない『女大学』に気兼して、姑も嫁も遠慮しながら、うらやましい家庭と思われた一家もあったでしょう。『女大学』が悲哀のもととばかりきめつけることもなりません。杓子定規や、ゆきすぎはどこにでもいます。盗心の女は去られたかもしれませんが、淫乱は、苦にならぬ男もいたでしょうし、なにも本に書いてあるからといって、そのとおりにせねばならぬことはなし、本は本として、よんでるときだけそんな気になるのもいいし、知ってることをひけらかす種にもなるし、便利なときだけひらいて、都合のわるいときは階段の横を利用してつくった引き出しの奥へでも押し込んでおけばいい、江戸人には、多分にそんないい加減な連中が多かったようです。聖人の教も、大学者の書いた本も、ほんとうを言うと、いいつらの皮かもしれません。


金子光晴「日本人の悲劇」(『金子光晴全集第5巻』昭森社 一九七三年一二月三〇日発行 再版1000部)五七〇〜五七五頁
初版:昭和四二年、富士書院