職人ジョニー・トー

 ひとりの映画作家が生涯に扱いうる物語の型はどれくらいあるだろうか。片手で余るものもいれば、気にしたこともないほど多様な型をとっかえひっかえするものもいるだろうが、ジョニー・トーが扱いうる型は、数えて正確に五つである。この数字に関する限り、私の確信は揺るがない。ことフィルム・ノワール調の作品に限定していえば、この数が将来的に増えることもなければ減ることもないと思う。書の技術が六つの基本的動作――起筆、送筆、終筆、撥ね、払い、転折――に集約されるように、ジョニー・トーの物語は五つの型に集約される。いまどき物語の型でもあるまいといわれそうだが、われらがジョニー・トーが現代でもまれな職人気質の映画作家であることを忘れてはならない。職人であるということは、みずからが体得した技術的な手段を用いて対象を制作し、そのつど得られる知覚的刺激や経験則のすべてを型との馴致によって計測する人間であり、対象との距離は、倫理観でも道徳観でも感情論でも、ましてや打算でも配慮でもなく、ひとえにこの技術的な見地からのみ計測されるということである。その意味で、ジョニー・トーほど(誤って使用されることが多い)創造性ということばから遠く離れた映画作家も存在するまい。彼が同時に脚本をてがけるフィルム・ノワールの扱う題材は驚くほど幅広い。マフィアのボスの暗殺を狙う集団と護衛団の死闘を描く『ザ・ミッション 非情の掟』(1999)や、ヤクザの跡目争いから血で血を洗う派閥間の選挙騒動に発展する『エレクション』(2005)や、マンションに人質をとった強盗と全面封鎖をした警察がマスコミを連動させたイメージ闘争を繰り広げる『ブレイキングニュース』(2005)や、記憶喪失にかかりつつある男の復讐劇を描いた『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』(2009)などを思い出すまでもなく、フィルム・ノワールの基本的な登場人物(殺し屋、マフィア、薬の売人、ジャンキー、売春婦、警察、裏切り者、逃亡者、仲介人、あらゆる非合法者)と、ヒステリーを除いたフィルム・ノワールの基本的な主題(取引、殺し、裏切り、なされぬ贖罪、冷血、内通、彷徨、あらゆる非合法活動)にあくまで忠実なままに、一作ごとに異なる作風の多彩さを蔵していることには眼を見張るばかりであるが、ジョニー・トーの作品が、主人公の性格造型の一貫性を欠けば欠くほど魅力的に奔放に振舞い、物語の整合性を欠けば欠くほど演出のアイディアが非凡になることの説明は、この題材の豊富さからは決して証明できないだろう。なるほど彼の作品の魅力を語るさいに必ず言及される義侠心にあふれた殺し屋たちという登場人物と、ガンアクションに積極的に舞踏の要素を持ちこんだ演出は、それぞれにその魅力の遠因を語っているが、それらとて物語の型が必然的に呼びこむ結果に過ぎない。先に述べたとおりジョニー・トーは職人気質の映画作家であり、型というのは元来体得した以上は応用がきくものである。したがって、彼の多彩さはあくまで型の所在とその応用から説明されなければならない。
では、ジョニー・トーがストーリー・ラインを決定するために用いる型とは何か。ここでは、『エグザイル/絆』(2006)を例にとってみよう。ウーと呼ばれる男を訪ねて旧友が部屋に集い、いっせいに銃を向けあうシークエンスから始まるこの作品では、冒頭から彼の型のひとつである「⑴味方同士が敵になる」を見ることができる。このシークエンスは、なるほど人物設定上は「かつては同じ殺し屋稼業を営む友人だったが、ウーがボスの暗殺を企てたために敵同士になった」という説明を加えられるし、演出上では「ウーがリボルバーに弾を一発装填するたびに、相手はマガジンの弾を一発抜く」という動作で互いが六発きりの銃弾を装備したままガンアクションに移行するという周到なアイディアを見ることができる。これらの説明に共通するのは、じつに必然性のなさという一事であり、銃撃戦のあと、傷ひとつない男たちは軽やかに破損した室内の調度を修復し、中華鍋を振って料理が並ぶ食卓を囲むあっけらかんとした展開をみるにつけ、ジョニー・トーが手馴れた型として提示するのが、「⑴味方同士が敵になる」の応用である「敵同士が味方になる⑴」であることに気づくのだ。この第一の型は、『PTU』や『ブレイキング・ニュース』では警察同士が廊下で銃を向け合うという演出に結実するのだが、サスペンスを盛りたてるという意味では見事に失敗しているこのような型は、実にその説話上、演出上の意味のなさを理解してのみ、彼の職人気質な芸の披露として味わうことができるのだ。以下、この第一の型の応用は、人質と犯人が仲良く囲む食卓や、敵同士と見せかけて商談に持ちこむマフィアのボスの手練にもみることができるが、食事の場面がジョニー・トーの作品に頻繁にあらわれ、かつ戦いの最中に見られることを思い出すことができれば、彼のなかではまだ型というほどには成熟していない「戦いの最中に食事をとる」と、その反転である「食事の最中に銃を向ける」を確認することができるだろう。型にまで成熟していないと述べた理由は、この食事の場面が緊張のなかの弛緩として、一時休戦を告げる合図として機能しているからであり、あくまで⑴の型の補足的な手段として映画内に取りこまれているためである。
 以下ジョニー・トーが用いる型を列挙する。犯罪者と呼ばれる集団の精密な職能的分類から帰結する「⑵殺し屋が強盗の仕事をする」という第二の型、犯罪も職能によって分類される以上、それは契約関係によって成り立つといういたって職人的な良心と洞察から「⑶請け負った仕事は必ず遂行する」という第三の型、香港警察の公表する犯罪検挙率へのまっとうな懐疑から「⑷犯罪現場に別の犯罪者が偶然居合わせる」という第四の型、そして、彼がフィルム・ノワールの最良の後継者である理由のひとつである人間の死に際への愛情から「⑸死ぬ直前の人間は誰でも正しい」という第五の型、という具合にそれぞれ分類することができる。
 まずは、第二の型について。『ブレイキング・ニュース』では、強盗団が篭城したマンション内に、偶然別の事件にかかわる殺し屋が潜伏していたため、包囲網を敷いた警察に対して警戒している最中に両犯罪者が共闘することになる。この設定は、第一の型を緩やかに内包しながら巻き添えを食らった殺し屋と強盗がいったんは向け合った銃をおさめて手を組み、つづく包囲網からの脱出にいたって警官との激しい銃撃戦のすえ、殺し屋一味が全滅し、わずかにその胸元から一枚の写真が零れ落ちる。脱出に成功した強盗の男は、この写真が死んだ殺し屋のターゲットであったことを理解し、任務の代行を目的に逃亡を計るにいたる。このプロットは、彼の作品では珍しくスピード感があり、説話効率という観点からみても完全に成功しているため、演出上のアイディアはかえって影をひそめることになるが、肝心なことは、序盤の段階で彼の用いる型を(第五の型をのぞいて)すべて持ちこんでいることである。「⑵殺し屋が強盗の仕事をする」という第二の型を成立させるため、第四の型である「⑷偶然犯罪現場に別の犯罪者がいる」で殺し屋を配備するが、代行は契約のかたちでは行われない。つまり、お互いの仕事の違いを認め合った両者は、ただ相手がもう任務を遂行できる状態ではなくなったために代理を買ってでるだけであって、ここに契約関係は成立しない。したがって、この仕事は失敗に終わる。なぜなら、契約していない以上第三の型に反するからである。この展開に、殺し屋と強盗の無茶であるがゆえに美しい義理を、その無惨であるがゆえに悲壮感漂う顛末を読みとるむきもあるようだが、単にいくつかの型を組み合わせた結果に過ぎず、それ以上の深い理由はないのである。このような説明に味気ないものを感じる人もいるかもしれないが、職人であるということは、つまりそういうことなのである。彼は自分の持ちうる技術がどんなものか知っている。そして、その技術は応用がきく。それだけで充分なのだ。第二の型は、『エグザイル/絆』では殺し屋たちがたまたま車を走らせて向かった先に金塊を一トン積んだ護送車が現れる場面で確認することができるし、『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』では、充分に殺しの素質を持った男が殺し屋に仕事を依頼するというやや撞着な破格としてやはり確認できるだろう。
 第三の型について。「⑶請け負った仕事は必ず遂行する」。この型がおそらくジョニー・トーという作家の最も特異な面を、北野武クリント・イーストウッドの英雄たちとの断絶を見せるであろう。『BROTHER』(2001)や『グラン・トリノ』(2008)の単身敵地に赴く最期を思い出すまでもなく、二十一世紀になっても文句なしに強い主人公を自ら体現してきたふたりの作家にとって、死ぬということはそれだけで倫理的な振る舞いでありえた。自殺と犬死の中間で運命を迎えること。そこに含まれる自己犠牲の精神と死後の惜しみない讃美は、素朴な力で彼らが現代でも最も稀有な神話的人物を演じうる素質を示している。ジョニー・トーの諸作品で、とりわけアンソニー・ウォンがこうした素質の片鱗をみせるような場面があるのは私も承知している。しかし、それとても私はあくまで彼の職人気質が導き出した結末だと主張する。『エグザイル/絆』のラストで、結果的にマフィアのボスに逆らった男たちが、金塊で命乞いの物質的後付けをしたあと、ただアンソニー・ウォンだけが許されなかったために、銃を振りかざす場面がある。彼らは全員が許されることがなかったために、たったひとりの仲間のために残りの全員が一度買った命を投げ出すのだ。この場面に、悲壮感など無縁であることはいうまでもない。戦闘の開始を告げる合図として、ひとりが蹴った空き缶が、(アンソニー・ウォンの)ヘディングで中継され、(サイモン・ヤム演じるマフィアのボスの)キックで高らかに空中に上げられる。重力が再び缶を地面に叩きつけたとき、すべての銃弾は撃ちつくされ、死体だけが転がっている。この一連のガンアクションにあるのは、悲壮な殲滅ではなく、嬉々とした遊戯の感覚である。この場面が契約した職務でないことを考えれば、これは殺しというよりも単なる遊び、もっとも代償の高い遊びであるというほかない。つまり、遂行の有無は当初から問題にされておらず、生き残りをかけた闘いという趣きでもなく、単に余暇の最後の一日、捨てて惜しくない命の残り火であるにすぎない。その意味で彼がもっとも影響を受けていると自他ともに認める北野武よりも、殲滅にいたる動機の不在(あらゆる原因の不能性)という物語構成においてははるかにサム・ペキンパー(とりわけ『ワイルド・バンチ』(1969))の世界に接近している。善のなかに悪が交じり、悪のなかに善が溶けこむことで世界は安定した殺戮のショーの繰り広げ、張り切った緊張のさなかに哄笑が響き渡るかと思えば、だらだらした弛緩は一発の銃声で打ち破られる。この真面目と不謹慎を往還する物語の緩急を自在に操る職能は、考えうる限り世界でただひとつしか存在しない。ジョニー・トーが好んで描く殺し屋は——その幻想的・虚構的な性格が誇張されすぎてみえるときですら——金で請け負う仕事という点ではいたって正式な職業であり、仕事を持ちこむ依頼主の個人的な事情がどうであれ、その仕事は報酬の通りになされるに値するのだ。
 第四の型について。私はジョニー・トーの描くストーリー・ラインで一番うならされるのが、この「⑷犯罪現場に偶然別の犯罪者が居合わせる」が現れた瞬間である。また、もっとも頻繁に登場する型でもあるこの偶然を装った舞台装置への導入は、彼の映画のなかでは犯罪者の一類型である警察も含まれている。『エグザイル/絆』の冒頭で、たまたま通りかかる警官の車両が殺し屋たちのただならぬ剣幕に怖気をふるい、逃げ出そうにも逃げ出せない状態に陥る滑稽な場面からはじまり、この論で挙げたあらゆる作品のなかでみてとることができる偶然性は、多くの場合はガンアクションを盛り上げるきっかけ、もしくは増員要因としてもたらされるに過ぎないが、そればかりではない。犯罪者同士が共闘する、というアイディアは、しょせん犯罪者は同じ根っこであるとか、犯罪者は一蓮托生であるといった粗雑な認識ではなくて、フリッツ・ラングの『M』(1931)に見られる途方もなくシンプルなアイディア――目的次第では警察とマフィアが手を組む――のような、善悪を抜きにした実用的観点を徹底させた場合にのみ生まれる発想である。したがって、『ブレイキング・ニュース』のような例を思い出すまでもなく、私がジョニー・トーに技術的にもっとも洗練させてほしい型のひとつがこれであり、それは第一の型との合わせ技によってのみ可能であると信じている。『エグザイル/絆』で金塊を積んだ護送車が現れる場面が、おそらく現時点では最も傑出したシークエンスを構成している。殺し屋たちが現場に向かうまえに別の襲撃者たちの銃弾を浴びた警備隊は、凄腕のスナイパーを除いて全滅する。このサングラスをかけたスナイパーは、口にくわえた煙草の灰を落とすことなく、装備した照準器をいっさい使用することなく銃口を正確に敵に向けるため、殺し屋たちのひとりが思わず感嘆の口笛をあげずにはいられないほどだ。殺し屋たちは、敬意を表して警備隊に加勢し、スナイパーに笑顔をふりまく。その後に起こるのは、もちろん第一の型である「⑴味方同士が敵になる」、つまり、互いに銃口を向け合うことだ。ふたつの銃口の間にわって入ったアンソニー・ウォンがスナイパーに言う台詞は、めまぐるしく変わる第一の型とその反転を象徴しているという意味で、感動的である。「お前は金塊を持って逃げろ。それとも俺たちと一緒に来るか」。
 これまでの説明から、もっとも頻度が少なく、また説話論的機能というにその存在を留めるのが第五の型である。「⑸死ぬ直前の人間は誰でも正しい」という型が、これまで述べてきた一から四までの型が人物の性格や状況の設定に関連したものであったのに対し、あくまでも説話論的機能に留まるという、いさかか歯切れのわるい形でしか提示できないのは、この型がまだ十全な姿ではジョニー・トーの作品に現れていないという事実を語っている。『エグザイル/絆』では、ラストの殺戮の舞台で、唐突に証明写真用のブースが視界に現れた瞬間がそれで、彼らははしゃいで一人しか写らないブースの中でカーテンを掻き分けながら、同じ一枚の写真に写ろうと押し合いへし合いする。先に述べた缶がガンアクションの合図になり、始めを確定するとしたら、写真が現像されて機械から押し出されてきたときには遺影になっているという意味で、終わりを確定するといえる。写真は同時に停止の、つまり死の暗示として機能している。こうして、死に際を飾る小道具として第五の型は用いられるのであるが、おそらくもっとも未開発なのもこの型である。『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』で部分的に見られるような記憶の再構成の手段(体を動かせず口も利けない人間から目撃情報を聞く)として、第五の型は発展していくに違いないが、それはあくまでも型の習熟としてのみ現れるだろう。なぜなら、彼の多様な演出のアイディアも、豊富な題材も、特異な人物造型も、一貫してこれら五つの型を基準として計測されることになることにはかわりがないからだ。