五つのプロット ジョニー・トー『PTU』(2003)

 仮にあなたが映画監督だったとして、物語を組み立てるための短いプロットがいくつか思い浮かんだとする。これから作り出される映画の全貌は、その着手の段階ではまだまとまっていない。そこで、それが一本の映画にすべて収まりきるかは不問に付して、あなたは思い浮かんだ五つのプロットを書き出すことにする。
1 街を巡回する警察の機動部隊が、波止場で偶然見つけた犯罪組織と銃撃戦になり、無傷のまま敵全員を射殺する。
2 人気のないオフィス街で、路上駐車を狙った窃盗事件が起こる。その犯人は自転車に乗ったひとりの子どもだったと判明するが、子どもは無垢な存在なので捕まらない。
3 対抗するマフィア同士が、下部組織のチンピラの諍いから親分の愛息の殺害へ、さらには全面衝突へと発展し、トップのふたりが夜の路上で銃撃戦のすえ、相打ちになる。
4 現場重視の人望のある警部に不審を抱いた特捜課が、見張り役の新人を送りこみ、犯罪組織と内通していないか探りを入れる。
5 刑事は路上のバナナ皮に足を滑らし転倒し、失神しているあいだにリボルバーを紛失する。奪われた銃を探して夜の街をさまようが、手がかりはつかめない。意気消沈した刑事が再び同じ場所でバナナの皮に滑って転倒し、ふと手をやったごみのなかにリボルバーを発見する。
 おそらく、あなたがふつうの映画監督であれば、1と3と4がもっとも親和性が強いプロットであることを理解するだろう。その手の話は確かにたくさんあるが、警察と犯罪組織の癒着は古典的なテーマであり、警察を三つの組織に分割し(特殊機動部隊、組織犯罪課、特捜課)、マフィアの二大抗争と合わせて、合計五つの利害関係を作り出すに違いない。さらには、正義感あふれる新人や食えない内通者、鉄砲玉やチンピラ、堅物の上司や冷酷な幹部をしかるべく配置して、組織の腐敗と個人の抵抗を緊張感あるサスペンスに仕立て上げようとすることだろう。一方、残った2と5は一本の映画の軸にするには物語として弱すぎると判断し、2はかろうじて『シティ・オブ・ゴッド』(2002)のような幼少児の犯罪として、いかにマフィアや拳銃が人間を早期から堕落させうるかという命題のサブプロットとして生き残らせることはできるとしても、5はあの偉大なアクション映画監督である黒澤明の『野良犬』(1949)を馬鹿にしているとしか思えず、自らの着想を恥じて早々に忘れてしまおうとするかもしれない。さて、繰り返すが、ここに述べたのはあくまであなたがふつうの映画監督と呼ばれた場合の選択である。
 仮にあなたが映画監督で、香港を舞台に活躍しており、その名前をジョニー・トーといったとしよう。おそらくあなたは躊躇することなく2と5を主軸に物語を作り始めるだろう。なぜか? そこにはばかばかしさがあるからだ。そして、あなたはばかばかしさにこそ、人間の真実があると確信する。だから、扱う題材だけを眺めると、あなたは社会派と呼ばれてしかるべき位置にいてもまったくおかしくない立場でありながら、香港フィルム・ノワールのなかでも徹底して特異な、あの徹底してばかばかしい美学を打ち立てることになるのだ。あなたは、ふつうの監督が一度決めた設定のなかで既存の映画的知識を配備し、その良心的なきめ細やかさで最初の設定を補強し、既視感のなかでそれなりに気の利いたアイディアを用意しないわけでもない、あのまことに順当な作り手ではない。あなたにとって、設定とはいかなる重要性も持っていないのだ。あなたがジョニー・トーと呼ばれる映画監督である以上、すべては最初の誤解にはじまり、リボルバーをなくしたと早合点した組織犯罪課の刑事は、それがマフィアによって奪われ、折りしも二大抗争の真っ最中でどのような犯罪に自分の銃を使われるかわからぬ不安に襲われる(5→3)。だが、刑事は責任問題になることはまっぴらごめんで、できれば自分の手でなくしたはずの銃をとりかえすべく、同期の特殊機動部隊の警部に熱い友情のもとに依頼し、一夜限りの隠密捜索を開始する。機動隊は直ちに手荒い事情聴取を敢行するが、出てくるのはマリファナ所持やカード偽造や違法売春ばかりで、肝心の拳銃の手がかりはない(5→3→1)。バナナの皮にすべることに始まりへまばかりしているこの刑事は、マフィアの闘争の犠牲者の携帯電話を現場に都合よく駐車された警察車両の、さらには都合よくトランクが開きっぱなしになっていた証拠物品のなかから奪い去り、銃を取り戻す情報源にしようとするが、用がすんでこっそりとはとてもいえないふてぶてしい体で携帯電話を現場保存の同僚に返しに行ったとき、間違って自分自身の携帯電話を渡してしまい、特捜課の内部調査の女に疑いをもたれ、つけ狙われるはめになる(5→3→1→4)。当然間違えて渡しそびれたままの携帯電話には、もとの持ち主にあてた通話がかかってくるのだが、その相手は果たしてマフィアの大物で、実にこの携帯電話の持ち主とは、マフィアの親玉の愛息であることが判明する。銃を返すことを条件に、刑事は対抗するマフィアのトップの暗殺を引き受けることになり、指定された場所に向かうが、そこには敵対するマフィアのトップふたりのほかに、路上駐車を狙った自転車に乗る子どもがいて、仕事の真っ最中である(5→3→1→4→2)。こうして五つのプロットは、流麗とは口が裂けてもいえないおおらかな強引さでひとつの舞台に都合よく集められる。ここでことわっておくが、「都合よく」とはあなたに対する最大の讃辞以上のなにものでもないから、あなたはただ香港最大の映画作家として都合よく悠揚としていただければそれでよい。さて、刑事は都合よく敵対するマフィアのトップが車をきしらせお供をまったく連れないまま現れるのを目撃するが、その刑事をやはり追ってきた特捜課の女は、犯罪の動かぬ証拠を突き止め息を飲み、そのすぐ近くで路上駐車の犯罪を警戒していた機動部隊は偶然にも波止場にフェリーで上陸した犯罪組織の男たちがマシンガンを構えるのを目撃し、陣形をととのえ集中砲火を浴びせる。事態はこのように推移して、マフィアのトップ同士、機動隊と犯罪組織とのあいだに因縁はあるものの脈略の定かでない銃撃戦がおっぱじまる。嫌疑のかかった刑事を追ってきた特捜課の女は激しい銃撃戦のあいだ、銃を撃つことなく車のなかに隠れる。そして問題の刑事は、なぜか急に頭を抱えて走り出し、くだんの現場でバナナの皮にすべって転倒し、なくした拳銃とめでたく再会することで、逃げてきた犯罪組織の男を射殺する(5→3→1→4→2→5)。こうしてジョニー・トーはその途方もないあつかましさで、すべての原因を作り出したバナナの皮の転倒を反復し、なんの因果性も感じられない銃撃戦のもとにそのできそこないの物語に終止符を打つのだ。だが、じつは話はここで終わらない。劇中ずっと鉄のような表情を崩さず、冷静でスマートに事態に処してきた特捜課の女が、意外なほどへっぴりごしであったことが露見するにさいし、念願の拳銃が見つかり浮かれた刑事は隠れていた女に対し、「何発か撃っておけば格好がつくよ」とうそぶきその場を去る。特捜課の女はこのときもその鉄のような表情を崩さず、何事もなかったかのように虚空に二回引き金を引き、嘘の調書を報告することもやぶさかではない(「抵抗したので撃ち返しました」)。こうして警察内部の秩序は保たれ、苛烈な銃撃があったあとに、あっけないほどあっさりと忘れられてしまった路駐狙いの若き強盗は、やはりジョニー・トーの映画にふさわしく、あっけらかんとその幼い二本の脚で、平然と子供用自転車のペダルを漕ぎ始めるのだ。
 なお、バナナの皮で始まり、バナナの皮で終わるこの映画の製作には、香港警察が全面的に協力していることを忘れてはいないあなたは、警察がいろいろな技能を持っていることを示したいばっかりに、人工呼吸の模範的な例を示すためにカード偽造のチンピラから情報を聞き出すために半殺しにするつもりが誤って息の根を止めてしまうシーンを案出するだろうし、せっかく制服のほかに防寒具やトラックも借りたのだからとノウハウを知らない技術スタッフに雨を降らせてみることだろうし、体の表面には証拠として残らない尋問の例として編み上げ靴を脱いだり、ミネラルウォーターのペットボトルを使ったハンディーな水攻めをしたり、蹴飛ばした相手についた靴底のよごれをふき取らせてみたりするだろうし、また警察の特権的な立場を示すために閉店した料理屋の二階でラーメンをすすらせるだろうし、一度それをしてみたかったという理由で懐中電灯片手に銃をかまえて欲しいと言ってみたり、その他の物語と関係ない演出上のアイディアが湯水のようにわきあがってくるものだから、ときには物語が整合性を失ってしまうこともおかまいなしに随所に挿入することも辞さないだろう。なぜならあなたはジョニー・トーと呼ばれる唯一無二の監督なのだから、主要な登場人物は奪われていない銃を追いかけ、内通などしていない仲間を疑い、遭おうとすらしていなかった犯罪組織とばったり出くわすという誤解と徒労を見えざる終着点として、偶然とお決まりが織り成す魔法の世界のなかで、警察機構が成り立つためには犯罪組織を必要とするという風刺性など露ほども感じられない、ただ拳銃だけがすべてを解決するといういたってふつうのアクション映画のうえを、嘘のように軽やかに地すべりしていくことだろう。なぜなら、あなたはそのたくましく強靭な再構成能力をそなえた記憶のなかで、黒澤の『野良犬』のことを、その一年前に封切られた『酔いどれ天使』(1948)の似ていなくもないシークエンスと混同して、ペンキをかぶって転ぶ映画だと位置づけているのだから。