(その二) 長崎丸山

 長崎丸山には揚屋がなく、唐人、紅毛人が立ち寄る出島があった。遊女は、第二次世界大戦後の横浜で白パン黒パンと言われたように、外国人の肌の色によって、それぞれに相手をする専門を分けていた。とりわけ唐人の相手を務めることは、覚悟のいることだった。唐人は、日本の遊女のように、かかえ主の意向と金の要求と客との相性のどれかひとつさえ合えばだれでも相手をするという風潮を好まず、遊女をひとつところに卒居し、錠をかけ、外のものにささやきかけることすら戒めた。また、遊女歌舞伎は禁じられていたが、毛利島では独自の法体制がしかれ、能舞台をしつらえ、遊女歌舞伎を幕末まで続けた。