当たらない弾  岡本喜八『100発100中』(1965)

 あけすけに、ひとの命を掌握すること。こうした欲望にもっとも忠実な群像劇に、東宝無国籍アクションの名前を挙げることができる。ルールはひとつ、ひとの命はとっても、命がけにならないこと。東宝アクション映画の登場人物たちは、まるでサイレント映画時代の幸福な記憶――ただ動くということがすなわち喜びであった、幸福な幼年時代――を再現するかのように、煙を吹く拳銃や、頭上に降り注ぐ爆発物に、執拗にして無邪気な好奇心をあらわにする。岡本喜八の映画『100発100中』(1965)でも、対立するヤクザの抗争をいっそう激化させる要因として、中国人が密売する改造拳銃が出てくる。超音波を発する笛で起動するプラスティック爆弾もお目見えし、マザコンの日系フランス三世役の宝田明がこの拳銃密売組織の親玉を追い、ビキニの美しい浜美枝がアジア一帯で物騒な爆弾を売りさばき、中国語訛りを模した男たちが暗躍し、ヤクザやドジな警察が入れ乱れる、とここまで書くと、東宝無国籍アクションが、いかに典型的な配役を並べ、同じセットを使いまわし、日本を外国に見せる、さまざまな見つけやすい工夫を重ねていたかがわかる。われわれは、もう同じ話を何度も観たことがある(この作品は、007にインスパイアされ、ルパン三世の原型となった)。だから、登場人物は、設定を持つが、性格を持たない。つまり、彼らには過去がないのだ。陽気にひとを殺せる人間には、過去などいらない。相手の心臓を一発ドスンとやったあとに、すぐさま女を口説けるような類の人間こそが、ジェームズ・ボンド流の人間で、踏み越えた死体をエレガントに忘れてしまえることに、心底長けているのは言うまでもない。
 お互いに命を狙いあいながら、殺伐としたムードは微塵もなく、ともすれば和気藹々とした雰囲気が周囲を支配する。命に価値があるのは、それがその人物が生まれながらに手にした、たったひとつの持ち物だからではない。東宝無国籍アクションにおける命とは、自分の持つ武器を解説し続けることである。「またつまらぬものを切ってしまった」という聞きなれた台詞は、まさに武器こそがその人物の存在であることを意味している。両者が切り離せないのは、武器が人格の代わりをしているからで、過去を持たない登場人物たちは、ただ己が武器への並々ならぬ執着と鍛錬の結果だけを見せ続けることによって、この世界に生きながらえる。したがって、武器に善悪がない以上、東宝無国籍アクションは、勧善懲悪の世界からは、完全に離脱している。映画の終盤、青い空と砂浜に似つかわしくないふたりの男が対峙する場面がある。暗殺者の宝田明と、彼を追い続けた部長刑事である有島一郎が、手を組んだわけでもないのに密売組織をめでたく壊滅させ、がっちりと握手をする。宝田明は、「悪いやつを懲らしめるということでは、殺し屋も警察も変わりませんな」とうそぶく。有島は、見るものが拍子抜けするほど、あっさりと同意する(ここが、『100発100中』とルパン三世との顕著な違いだ。後者では、それが仮に真理だとしても、認めない)。われわれが用心しなければいけないのは、こうした何気ない台詞に、文明批評などという気の利いた繰言を発見することだ。続けて画面を注視すると、刑事の有島は笑顔を浮べ、なかなか握手した手をはなそうとしない。ここには、確かに、ある種の意味合いがある。つまり、悪を懲らしめるという意味で殺し屋と警察が同業者だとしても、警察には、その同業者を取り締まる権限があるのだ。だが、刑事は結局手を離し、殺し屋はボートで美しい女と海に消え、刑事はひとり浜辺に取り残される。白い砂浜のへりを、波が洗っている。刑事はなぜか、覚えたばかりのフランス語をでたらめに叫んで、万歳をする、ボンボワー! ボンボワー! 刑事は旅に出ない。ただ、刑事は見送るものがあるときだけ、そのものを追い、旅に出る。いずれ、能無しのヘリコプターが迎えに来て、彼はまた旅に出るだろう。命がけにならないという東宝アクションのルールを、ひとりだけ踏み外していることに、いつまでも気づくことなく。彼だけが、当たらない弾、出来損ないの武器を持っている。そして、お門違いの悲哀をどこまでも肩に隠しながら、スーツをはおり、死ぬに死ねない不器用さを必死に押さえ殺すのだ。