(その五十八)改心

宝永六年版『今様二十四孝』の記事。傾城狂いがもとで兄の身代をつぶした男の話。傾城狂いに走った重右衛門は、兄の財産を蕩尽すると、そのまま行方をくらました。心を入れ替えるつもりで江戸の商家で数年の研鑽をつみ、詫びを入れるつもりで兄の家に出向くが、兄はすでに他界していた。嫂と母はいずこかへ去ったという。その後、宮川町で昔の血が騒ぎ、夜鷹と馴れ初める。これを伴侶と思い定めた重右衛門が意を伝えると、女は浮かれた寝物語のつづきに真実を話すのは無精とはいえ、自分には義母がひとりいる、と伝える。つつがなく面倒を見ると誓文をしたため、手を引かれるまま招かれた六波羅の借家にいたのは自分の母で、よくみると、松の根元でしとねをともにしたのは女は兄の後家であった。
『今様二十四孝』ではこの話を美談として扱っている。たしかに、孝行が残酷でないなどといった規定は存在しない。

(その二)『女大学』の時代

 かたい武家の家や、商家でもしっかりした家風の家、郷士、土地の旧家などで、小ゆるぎもしない古くからのしきたりで、時勢の変遷などよそにみて、格式通りの生活をつづけ、冠婚葬祭も慣例に従って、『女大学』はそこで重要な、女のありかたの支えになっていました。それだけにまた、婚家の姑の勢がつよかったものです。岩永某という千石取りの家に、同格の家から嫁をもらいました。岩永のあと取り息子は、きりょう好みで、すっかりその娘が気に入り、深窓に育ったその嫁も、嫁しては夫に従うで、似合いの夫婦でむつまじくいっていたのですが、ある日、嫁が入浴をしているところをかいま見た姑が、即日嫁をよんで離縁を言いわたしました。嫁のきず物で、きず物は受けとれないというのです。なるほど、裸でからだをあらっているうしろ姿を姑がみたところ、背すじの横に傷があったのです。小娘のころ、庭でころんで、そのとき、そぎ竹がささったあとなのです。去られて娘が実家にかえると、頑固な父親は、ろくにわけもきかず婚家がお前の家で、ここはもう帰るところではない、一晩もとめられないと言って、受け入れてくれません。彼女はふたたび婚家にかえりましたが、駕籠のなかで懐剣で胸を突いて死にました。息子は悲しみのあまり部屋にとじこもって食事もろくにとりません。むろん、人にも会いません。門番はちょうど、嫁の死体をのせたかごが着いた時刻になると、それから毎夜かごがついた気配がしますので、小屋の目かくし窓からのぞいてみると、誰もいないのです。そして、息子のいる離れ家の燈が急にあかるくなって、ひそひそと話し声や、あかるい男女の笑い声まできこえてくるというのです。話のあとのほうは、怪談趣味で、そこまで話をもってゆかねば気のすまないのがその頃の人のこのみといってもいいでしょう。小泉八雲のなかにも、嫁と姑の怪談があります。病んだ姑が、嫁の背におぶさって庭に出たところ、おろすところになって、背はれた(ママ)老女の爪が嫁の肩に食いこんでとれないという話です。外からはつつしみぶかく、そんな気振りもみせないでいて、内攻した敵意のふかさは、あたりを墓場にかえてしまうほど陰々滅々としたものです。まま母の子供いじめも、おとらず悽愴なものです。本妻と妾の呪いあいも、陰湿な日本の風土のなかでしっくりしています。子のない妻と、妾とは一つ屋根の下に住み、一人の男を奪いあい、あらゆる執撓な手をつかいます。妾に子供ができれば、本妻は肩身が狭く、形のうえだけででも妻の威厳を保ちさえしていれば、それはよくいっていると言っていいのです。そういう一家の本末転倒に対して、むかしは発言権をもつつよい親戚がいたようです。親戚たちの協議で、一家を処理するようなこともあったようで、支配者階級も干渉する面倒をなるたけ避けて、縁者たちの裁決に任せるのを望んでいたようです。親戚たちもひろい一家とみているわけです。家風に合わないという名儀で、紛擾の元となっている人間をその家から追い出すとか、倒産しかけている家の責任者を隠居させて、他のものにゆずりわたさせるとかいったことです。自分の亭主をすっかり尻に敷いている女も、親戚合議の席に出ると、女はやはり物の言えない立場に置かれて、理の通せないことが普通でした。封建的なものがそっくりのこっているような古風な家でも、明治、大正の家は同日に論ずることができません。親戚をふくめた大家庭の観念は旧幕までのもので、それぞれの家の生活が忙しく、また、別家のことに干渉する権限をもつほど相手になにもしてやれないということもあるのです。とにかく、『女大学』が一般に不人気になってきた時代にも、その教の要旨だけは、いわゆる、良家の婦となる資格として、学校教育にもとりあげられ、娘の父兄たちもじぶんの娘たちの将来のためにまちがいのないものとして、カビくさいのは承知のうえで、そのモラルをいまなお支えているわけです。江戸時代に卑俗化され、庶民のあいだにひろがり、普及した『女大学』は、じぶんのやっていることはそれとはまったくうらはらな一個一個の人人、たとえば、宿場女郎や、やりてや、つつもたせや、板の間かせぎをするようなあばずれにも、表口からは避けて近づくまいとしながらも、大きな劣等感を抱いている証拠に、常人以上に涙ものや、感心な話には過敏で、案外にじぶんたちの境遇をsh会の罪にして食ってかかったり、意気にも正当化してみせようという者は少なかったようです。そして、泣き所にふれると、みいちゃんはあちゃんと変りなく、盲目の沢市につかえるお里の貞節や、乳人政岡の忠烈、力士稲川の勝角力を願って苦界に身を沈める女房おとわの胸の内、お軽の身うりなどに、おしげもなく涙をながすのです。つまり、『女大学』や『孔子家語』の教えるところが正しいことは、公方様の世のうごかないのとおなじで、すこしの疑うところもないが、その道からはずれたじぶんは、どんなになげいても、悲しんでもしかたがないという、絶望とあきらめに到着し、いやしいじぶんがいやしいことをしても当然とおもうのです。そういう、最低の線でも、『女大学』はれっきといすわりつづけていたのでした。あたかも、強欲な借金取りのように。
 江戸の女は、男女の別という差別待遇をうけ、女は前世の罪が重いと坊主どもからはケチをつけられ、初産が女だといっては、愁傷がられ、そのうえ、ちょっとした不しだらでも一生のきずにされ、丙午だからといって縁がなく、不器量なれば見むきもされず、どちらをむいても立つ瀬のない世の中に生まれあわせたようですが、時代の差異はあるにしても、どこの国でもおなじようなもので、中世期のフランスでは、女は竃の前にうずくまっているべきものと一般には考えられていましたし、支那でも春秋時代、秦の穆公のもとにようのおともをして百里奚が来たことが本にのっていますが、ようというのは、嫁いでくる女に姉妹があれば、ついでにそれもいっしょについてくるという制度です。十人姉妹があれば、十人ともいっしょにもらうのです。このごろのテレビの賞品のようなものです。江戸の女も、はなとか、とくとか呼ぶだけで、素性をたずねるとなると、何兵衛妻はな、何衛門とくといった案配で、女は存在がかすかで、いるかいないかわからなくしているほうが、しおらし気があるといって、好感をもたれるというわけでした。でも、それは、帳づらにざっと目を通しただけの思案で、いつどこでも、男と女は対等なのが本来のありかたで、くずれているようでそれがくずれないのは、それこそナチュウル、ナチュウルです。客の前では、いばり散らしてみせる亭主が、こっそりと、女房の下帯を洗う図は、別にめずらしくもありません。男の『大学』には教えてありませんが、男もまた、女につかえる動物です。江戸の女も男から一方的に邪慳にされていたわけではありません。戦前、銀座のデパートで、城東のほうの古寺にある、ある武士が死んだ恋女房の姿を人形に彫らせて、朝夕、生きているようにそれに話しかけて、終生かわらなかったという、その人形が陳列されたのを見たことがあります。等身大で、女の着ていた衣服をつけたその人形は、死顔をうつしたものらしく、みていると鬼気が迫ってくるようでした。江戸時代にもそんな律儀な男がいたのです。『女大学』をつつましく習って、世にも美しく添いとげて、しあわせというよりほかない生涯を送った男、女もざらにあったでしょう。性分にはない『女大学』に気兼して、姑も嫁も遠慮しながら、うらやましい家庭と思われた一家もあったでしょう。『女大学』が悲哀のもととばかりきめつけることもなりません。杓子定規や、ゆきすぎはどこにでもいます。盗心の女は去られたかもしれませんが、淫乱は、苦にならぬ男もいたでしょうし、なにも本に書いてあるからといって、そのとおりにせねばならぬことはなし、本は本として、よんでるときだけそんな気になるのもいいし、知ってることをひけらかす種にもなるし、便利なときだけひらいて、都合のわるいときは階段の横を利用してつくった引き出しの奥へでも押し込んでおけばいい、江戸人には、多分にそんないい加減な連中が多かったようです。聖人の教も、大学者の書いた本も、ほんとうを言うと、いいつらの皮かもしれません。


金子光晴「日本人の悲劇」(『金子光晴全集第5巻』昭森社 一九七三年一二月三〇日発行 再版1000部)五七〇〜五七五頁
初版:昭和四二年、富士書院

(その五十七)香下

色好みの平仲が思いそめたのはかの本院侍従。才女として誉れ高く、村上天皇の母后の女房を勤めていた。届け文ににくからぬ返事もあるが小ゆるぎもせず、ついに会うことがかなわない。せめて内奥をかき口説き続けるかた思いから解放されるために、平仲は侍女を捕まえさせて糞尿の入ったおまるを盗んだ。本院侍従のむさいものを拝もうと竹で編んだふたをとると、香木の薫き込められた匂いが鼻をついた。見ると、黄色い液体のなかに、なにやら黒いものが三つほど浮かんでいた。えも言われぬ香りにぞっとする思いで便器を傾け、液体を口に含むと、甘みのなかにつんとした苦さが舌先を貫いた。黒いものは、香を練り合わせたもので、かぐわしいこと限りない。平仲は、思いを断ち切るつもりが気勢をそがれ、結局は会えずじまいで「ほけほけしく」なり病に倒れてしまった。

(その百三十二)アルフレッド・ダグラス卿

 キチンの奥の狭いメイド部屋には移りたくなかったが、アルフレッド卿にも会いたい気持があった。一八九〇年代の典型のような人物で、若い頃には美男子で、無分別で、怒りっぽく、裏切り行為を働いたかどで刑務所にほうり込まれた、などの伝説以上には何も知らなかった。彼の詩を読んだことがあったが、真面目な批判に耐えるような代物ではなかった。しかし、自己顕示欲と虚偽に満ちていたと思われるオスカー・ワイルドとの外聞の悪い関係に興味を抱いたことはなかった。
 私は彼が圧倒的な魅力の持ち主だとは思っていなかった。想像していたより遥かに小柄で、若い頃の肖像に見る繊細に湾曲した鼻は怪物めいた鉤鼻に変わっていた。しかし、否定し難い温かみと、人を愛する気持が顔からいじみ出ていた。彼ほど人付き合いやマナーがよく、言葉や振る舞いに交換のもてる者はいない、と私は思った。人を喜ばせることがただ一つ彼の願いなのだという気がしはじめ、この能力はもって生れたもので、何の努力も伴わずに完成の域に達した結果、第二の天性となり、彼はそのなかに喜んで自分を投入したのだった。アルフレッド・ダグラス卿の役割を演じることを彼が大いに娯しんでいるので、見ている人はつい心を奪われてしまう。彼の技巧と描写力には三十分も同席していてさえ魅せられ続ける。そのときでさえ、もし彼が疲れれば、もう一つの更に魅力的かつ見破ることのできない仮面が現われるのである。
 現存する最も偉大なイギリスの詩人は自分だ、と彼がぬけぬけと確信していると知れば驚かざるをえない。どんな経緯でこうした結論に到達したかは彼自身の秘密である。それは恐らく、イノック・ソームズのように彼が模倣者の模倣者だったという事実を受け入れることは絶対に拒否させようとする、専制的な心の命令によって強制されたものに違いない。彼は自分の分野で第一人者だと固く信じて疑わず、プリンセスのように脚光を浴びることに情熱を燃やした。彼もまた子供の頃の重要な時期に父親の存在に圧倒され、圧し潰された経験が何度もあって、その後の人生を人目を引くことに費やしたのだった。しかし、彼の身に起こった唯一の重要なことがオスカー・ワイルドへの友情であり、爾来それを利用してきたことは明らかだった。無名の存在になることから彼を救えたのは純粋な肉体的欲望だったが、彼にはそれの持ち合わせがなかった、ということがやがてわかった。もともと彼を不毛なナルシシズムに追いやった個人的魅力は、結局世人が注目する唯一の機会をもとめて無慮三十年という時間をかけて退屈きわまる努力を払わせることになった。しかし、他に何ができただろうか。無能な人間の例に漏れず、彼はいつも受動的だった。彼は全てを取りたがるが、何も与えようとしない。利己的だからというより、非常に多くを必要としながらも常に巧みに利用してきた称号と美以外には何も与えることができなかったからだ。彼は信頼できない人物ではなかった、ただ弱かったのである。馬鹿ではなかったが、空っぽだったのだ。私は彼ほど高潔さに欠けた人間には会ったことがなかった。


ジョン・グラスコー『モンパルナスの思い出』工藤政司訳 法政大学出版局 二〇〇七年二月五日発行 二六七〜二七九頁

(その百三十一)ガートルード・スタイン

 部屋は広く、落ち着いた色調の家具が備わっていた。しかし、壁面には収集したブラック、マチスピカソ、ピカビアらの豪華な絵画がところせましと並んでいた。私はそうした絵画の集積的な影響から回復した途端、部屋の向こう端にブッダよろしく鎮座するそれらの所有者の影響のもとにひれ伏していた。
 恐らく彼女を取り囲むへつらいの雰囲気のせいでもあろうが、ガートルード・スタインからは後光のようなものが射していると思った。ある種の黄麻繊維の粗い布で仕立てたらしい床まで引きずるガウンを纏った長斜方形彼女の体は絶対に反論できないという印象を与え、裾の襞におおむね隠れた踵は寺院の柱の基部を彷彿させた。彼女が身を横たえるなど考えることさえできなかった。往時のローマ帝国風にカットした髪は、あいにく首筋の美的な助けがないから農婦紛いの広い肩に降りかかっていた。目は大きくてあまりにも鋭い。私は彼女に魅力と嫌悪の入りまじった奇妙な感覚を覚え、まるで信じることのできない異教の偶像ででもあるかのように本能的な敵意と、不本意ながら尊敬の念を抱いた。


ジョン・グラスコー『モンパルナスの思い出』工藤政司訳 法政大学出版局 二〇〇七年二月五日発行 一二〇頁

(その百三十)エセル・ムアヘッド

 デセンデ・ドゥ・ラルヴォットにあるエセル・ムアヘッドの家はイギリスのオールドミスにふさわしい住いだった。中にはチンツや真鍮製品や家族の肖像など、壁面二つに書棚がずらり並んで中に前衛的な書籍が詰まっていることを除けば、サセックス州のコテージを彷彿とさせた。美しい海に面して置かれた机には原稿や、絵や、ゲラ刷りが山と積まれ、一九一〇年前後に製造されたと思われるタイプライターもあった。
 彼女は背が高く、痩せて骨張った体つきで、踝までの長いスカートを穿き、シャツブラウスを着ていた。断髪にした艶のない茶色の髪が顔を縁取っているが、白粉を薄くはたいた頬にいまだに少女めいた輪郭の面影があった。彼女には信じられないほど内気なくせに測り知れないほど抜け目のないところがあった。絶えず頬を染めながらも凛として妥協を拒むのである。彼女の父はモーリシャス島の軍政知事だったとボブが言っていたことを思い出した。
 甘いベルモットが小さなグラスで出され、私たちは腰を下ろして喋った。彼女はおよそ想像もつかないほど「ジス・クオーター」誌の不屈の編集者らしくなかった。ほとんど口を利かず、相手の話に熱心に耳を傾けるおどおどした、いかにも乙女風のこの女性が、過去五年間にわたってほとんど全ての一流作家の最初の出版者として文学史をつくり、ヘミングウェイや、ケイ・ボイルや、ポール・ボウルズを見出し、ジョイスを擁護しパウンドを扱き下ろした、とはとうてい信じられなかった。彼女が私の読んだなかでも最初のがrくたを世に出したこともまた事実である。しかし、こうして彼女に会ってみると、あの雑誌に見られる不条理と光輝の比類のない混交は彼女の個性がもたらしたのではないか、という気がしてきた。彼女の目には猫のそれを思わせる神秘的な色があった。
 ボブから聞いて私の知るかぎり、「ジス・クオーター」は「ザ・ダイヤル」や、「ポエトリー」や、「トランジション」のように裕福な個人がはじめた雑誌ではない。エセル・ムアヘッドにはわずかばかりの資産しかなく、資金の大半は個人や匿名の寄付者――主として寄稿する作家――に依存していた。
 彼らがいい作家か前途有望に過ぎないかは問題ではなく、病気に罹っている、食うに困っている、あるいは失意のどん底にあえいでいる、というだけで十分だった。事実彼女は下手な作家により大きな共感と同情を覚えた。もし文学界の功労者として誰かを選ぶことにでもなれば、不可知論的な傾向があるとはいえ当然の候補としてエセル・ムアヘッドの名前を挙げたい。彼女の人柄の良さは明らかで、周りに光を放っているように思われた。


ジョン・グラスコー『モンパルナスの思い出』工藤政司訳 法政大学出版局 二〇〇七年二月五日発行